魯迅の仙台留学

Lu Xun's study abroad in Sendai

魯迅の仙台留学
STORY 01

魯迅の仙台留学

魯迅(本名周樹人)は、仙台の官立教育機関に初めて入学した外国留学生でした。魯迅は東京にあった留学生教育機関弘文学院を卒業後、医学を志し、1904年(明治37年)9月、東北大学医学部の前身校である仙台医学専門学校に入学します。魯迅は弘文学院在学時の経験から留学生社会とは距離を置くことを望み、留学生の誰もいなかった仙台に来ることにしたといいます。
魯迅は第2年級在学中に文学者となることを決心し、医学専門学校を退学したため、仙台での生活は1年半と短いものであったが、東北大学史料館所蔵「仙台医学専門学校文書」には仙台における魯迅の足跡を窺い知ることのできる史料が含まれています。

STORY 02

東京から、仙台へ

1902年(明治35)春、周樹人は、浙江省(せっこうしょう)の官費留学生として日本へ渡り、東京の「弘文学院(こうぶんがくいん)」に入学した。当時東京には、こうした留学生向けの学校で学ぶ多数の「清国留学生」がいた。周樹人もまたこの留学生社会の一員として、浙江省の同郷会誌である『浙江潮(せっこうちょう)』に小説や論文を投稿したり、学校の教育方針に抗議するストライキに参加したりしている。
しかし、彼は一方でこうした留学生社会に対し、冷めた視点をも持っていた。やがて医学を志した周樹人は、弘文学院卒業後の進学先に、仙台の医学専門学校を選ぶ。留学生が誰もいない場所、というのがその理由であった。

  • 小説「スパルタの魂」(1903年『浙江潮』第五期 復刻本)
    小説「スパルタの魂」
    (1903年『浙江潮』第五期 復刻本)
  • 周樹人の入学に関する清国公使館より仙台医専への照会状(1904年5月)
    周樹人の入学に関する清国公使館より
    仙台医専への照会状(1904年5月)

STORY 03

医学生周樹人

1904年(明治37)9月12日、仙台医学専門学校の明治37年度入学式が片平キャンパス内の講堂で行われ、周樹人は医学生としての生活をスタートする。周樹人にとって、仙台医専での学生生活は、たった一人で日本人学生社会のなかに入っていくことを意味した。同級生だった学生が後日語るところでは、周樹人は真面目な学生で、教室では2,3列目の中ほどに座ることが多かった、という。

  • 周樹人の入学願書 (復原資料)1904年(明治 37) 6月 1日
    周樹人の入学願書 (復原資料)
    1904年(明治 37) 6月 1日
  • 周樹人一年級の学年成績表1905年(明治38)7月
    周樹人一年級の学年成績表
    1905年(明治38)7月
  • 第二の下宿・宮川家における同宿生との記念写真(ヒゲの写真)1905年撮影
    第二の下宿・宮川家における同宿生との記念写真
    (ヒゲの写真)1905年撮影

STORY 04

藤野先生

「藤野先生」こと藤野厳九郎(ふじの げんくろう)は、福井県出身の解剖学者で周樹人が入学した当時は30歳。ちょうど教授になったばかり。解剖学は一年生の必修科目で、藤野先生の授業は週4時間受講することとなっていた。

「私の講義は、筆記できますか」と彼は尋ねた。
「少しできます」
「持ってきて見せなさい」

私は筆記したノートを差出した。彼は、受け取って、一、二日してから返してくれた。そして、今後毎週持ってきてみせるように、と言った。持ち帰って開いてみたとき、私はびっくりした。そして同時に、ある種の不安と感激とに襲われた。私のノートは、はじめから終わりまで、全部朱筆で添削してあった。(「藤野先生」より)

  • 藤野厳九郎教授 1874年(明治7)福井県に生まれ、愛知医学校卒業後同校の教員を経て、1901年(明治34)10月に仙台医専の解剖学担当講師として仙台医専に招かれ赴任した。
    藤野厳九郎教授 1874年(明治7)福井県に生まれ、愛知医学校卒業後同校の教員を経て、
    1901年(明治34)10月に仙台医専の解剖学担当講師として仙台医専に招かれ赴任した。
  • 藤野教授研究室(『仙台医学専門学校在学紀念写真帖』より)
    藤野教授研究室
    (『仙台医学専門学校在学紀念写真帖』より)
  • 藤野先生が添削した魯迅のノート(複製)原資料は魯迅博物館(北京)所蔵.藤野教授の「脈管学(みゃくかんがく)」の講義。
    藤野先生が添削した魯迅のノート(複製)
    原資料は魯迅博物館(北京)所蔵.
    藤野教授の「脈管学(みゃくかんがく)」の
    講義。

STORY 05

医学から文学へ

魯迅の小説集『吶喊(とっかん)』(1921年)の自序によれば、医学生・周樹人が文学の道を志すきっかけとなったのは、仙台医学専門学校二年生のとき授業で見た日露戦争に関する幻灯(げんとう)写真のなかの、中国民衆の姿であったという。この話は小説「藤野先生」においても語られ、よく知られるところとなっている。そこには文芸作品としてのある種の創作が含まれていると思われるが、戦争に関する幻灯が学校で上映されたことじたいは、現在残されている資料からも確認できる。

  • 仙台医専六号教室の「幻灯機」いわゆる「魯迅の階段教室」。ドイツ語・物理学・化学などの基礎科目の教室として使われたほか、細菌学などの幻灯写真を上映する幻灯機も置かれていた。
    仙台医専六号教室の「幻灯機」
    いわゆる「魯迅の階段教室」。ドイツ語・物理学・化学などの基礎科目の教室として使われたほか、細菌学などの幻灯写真を上映する幻灯機も置かれていた。
  • 魯迅の階段教室 周樹人が在学していた頃は、現在よりも30メートル程度東側に位置していた。内部も若干の改造を受けているようである。
    魯迅の階段教室
    周樹人が在学していた頃は、現在よりも30メートル程度東側に位置していた。内部も若干の改造を受けているようである。
  • 仙台医専で使用された幻灯用のガラス板/当館蔵 戦争の場面が描かれるが、魯迅が述べているような「処刑」の画面は見あたらない。
    仙台医専で使用された幻灯用のガラス板/当館蔵
    戦争の場面が描かれるが、魯迅が述べているような「処刑」の画面は見あたらない。

STORY 06

惜別

肉体ではなく、精神の改造こそが中国の人々にとって必要だ、との思いを強めた周樹人は、1906年(明治39)春に仙台医専を退学する。藤野先生は、周樹人が仙台を去る数日前、彼を家に呼び、一枚の写真を一枚手渡した。

  • 周樹人の退学に関する清国留学生監督から仙台医専校長への通知/明治39年(1909)3月6日/当館蔵
    周樹人の退学に関する清国留学生監督から仙台医専校長への通知/明治39年(1909)3月6日/当館蔵
  • 「惜別」の写真(北京魯迅博物館所蔵)周樹人が仙台を離れる直前、藤野先生が贈ったもの。裏面に「惜別」の文字が記される。
    「惜別」の写真(北京魯迅博物館所蔵)
    周樹人が仙台を離れる直前、藤野先生が贈ったもの。裏面に「惜別」の文字が記される。
  • 仙台医専の日本人同級生による送別会/1906年3月/左端が周樹人。一番町で甘い物を食べたあと、記念写真を撮影したという。
    仙台医専の日本人同級生による送別会/1906年3月/左端が周樹人。一番町で甘い物を食べたあと、記念写真を撮影したという。

STORY 07

魯迅と「藤野先生」

仙台医専を退学した周樹人は、東京で「精神の改造」を実践するための文芸運動に取り組むが、1912年に帰国し、1912年に北京へと移った。そして1918年(大正7)、「魯迅」の名前で「狂人日記」を発表。以後鋭い筆致で作品を次々と世に送り出し、中国、そして日本でも、広くその名を知られていった。藤野先生から送られた一枚の写真は、この「魯迅」の書斎に飾られ、彼の心を絶えず励ましつづけたという。

  • 高良とみ旧蔵 魯迅自筆書幅
    元参議院議員の高良とみ(1896-1993)がかつて魯迅から贈られた自筆の書。
    高良とみは、キリスト者としての立場から平和運動や女性運動に参加し、戦後の日ソ・日中関係の回復などの活動で知られる女性平和運動家。 1932(昭和6)年1月、満州事変後の日中関係悪化のなか、高良は単身中国に渡航する。上海到着後に訪れた内山書店で、彼女は店主内山完造に「中国の新しい作家」魯迅と会うことを勧められ、後日内山書店の2階で魯迅と食事をした。高良はそこで自分の想いを魯迅に語り、魯迅は高良の言葉に黙ってうなずきながら、かつて日本に留学した頃のこと、藤野厳九郎先生の思い出などを懐かしそうに語ったという。帰国に際し、内山完造を通じて魯迅が贈ったのがこの書であった。
  • 太宰治『惜別』初版本/1945年(昭和20)年/かつての魯迅の親友である老医師を語り手にして、仙台医学専門学校時代の魯迅や藤野先生らの人間関係を描いた小説。第二次大戦末期に執筆された。

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