史料館古写真帳 その一


始まりは、「公開講座

−東北帝国大学第1回夏期学術講演会(明治44年8月)−


 

 明治44年8月末、9月の開講を前にした東北帝国大学理科大学で、1週間の公開講演会が開催された。写真は、落成間もない理科大学玄関前での、講師や受講者による記念写真。14県から78名集まった受講者の中には、大半を占める小・中学校の教員に混じって、理科大学への入学志望者や高等師範学校の女生徒なども見える。

 講義は総長沢柳政太郎(2列目中央)のほか数学・物理・化学という当時の全学科の教授が担当し、全課程を終えた者には聴講証明書が発行された。 この夏期講演会は大正5年(1926)まで断続的に開催され、春秋の「通俗講演会」とともに、発足間もない頃の東北帝国大学恒例の公開行事となっていた。


“史料館”時代の幕開けに寄せて

東北大学総長   阿 部 博 之      


 間もなく40年になろうとする“東北大学記念資料室”が“東北大学史料館”と名を新たにした。国内のこの種のアーカイブズの先駆的存在に相応しい改名であろう。実現に力を注がれた、小田忠雄総長特別補佐(館長)ならびに関係各位に心から敬意を表する。

 東北大学の歴史に関する資料を全学的に取り扱っていこうという動きが活発化したのは、創立50周年の頃からであろう。昭和32年(1957年)、高橋里美総長が50周年の式典をもって退任され、黒川利雄総長に引き継がれた。その後旧七帝大の総長のうち、4人(北海道、東北、東京、大阪)が本学卒業生になり、意気盛んであったことが思い出される。

 東北大学が開学以来標榜してきた「研究第一主義」と「門戸開放」の伝統がどのようにして築かれてきたか、一世紀の集大成が百年史編纂事業として進められている。いま世界の大学はさまざまな変革の中にあるが、開学の精神ともいえるこの二つの伝統は、21世紀に漕ぎ出した現在においても、依然として奥深く、また新たな展望を示唆してくれる。先人の足跡に学ぶことの大切さはいうまでもない。

 東北大学には全学組織としての附属図書館、総合学術博物館がある。これらと史料館は役割は異なるものの、記念となる資料を保存、整理している点は共通である。これらは東北大学のみならず人類の財産であり、また市民の財産でもある。

 “知性が進歩するというのは、知性が蓄積されていくことである。”との一文が政治学者丸山真男先生の引用にあるが、この言葉を改めてかみしめたい。

 

 


記念資料室から、史料館へ

東北大学史料館長  小 田 忠 雄      


 阿部博之総長はじめ全学の皆様のご理解・ご協力を得て,「東北大学記念資料室」が「東北大学史料館」と改称されることになり、その初日である平成12年12月1日には総長をお迎えして看板の除幕式を挙行することができました。平成10年に創刊しました「記念資料室だより」も本号から「史料館だより」となり、本館の活動状況を引き続き学内外の皆様にお知らせいたします。

 東北大学記念資料室は、その名の示す通り、片平の現在の建物にあった附属図書館本館の1室として昭和38年(1963年)に発足し、附属図書館本館とともに昭和47年(1972年)に川内へ移転しました。その後昭和61年(1986年)に独立して片平の旧附属図書館本館である現在の建物に移転したのですが名称は依然として「室」で実態にそぐわなくなっており、少なくとも「館」に改称して頂くのが念願でした。省令施設ではなく学内措置で設置された組織ではありますが、改称のために必要な規程改正等の手続や作業はかなり大変なもので、関係各位の絶大なご協力があって初めて可能となったと改めて感謝しております。

 平成10年3月の評議会において設置された「東北大学の在り方に関する検討委員会」では、これまでの3年間に本学の研究教育や組織運営システムに関する検討を進め、数々の重要な改革が評議会の承認を得て実現していますが、改称もその一環として実現したものです。従来の記念資料室は、部局長レベルの運営委員会と少数の委員からなる専門委員会によって運営されておりましたが、史料館は部局代表で構成する運営委員会によって運営されることになりました。また、附属図書館に置かれることになった副館長が史料館の副館長を務めることになり、国際文化研究科の布田勉教授に12月1日付けでご就任頂きました。

 平成10年11月に江沢民中国国家主席をお迎えしたこと、それを機会に開催した記念展示を大勢の市民の方々にご覧頂いたことは記憶に新しいところですが、その後も来客を次々にお迎えしており, 常設展や企画展を通じて、市民と本学との重要な接点の一つとして機能しております。また、 本学に関連する貴重な史料を現在も続々とご寄贈いただいたり、さまざまの興味深い問合せを頂戴しています。

 平成9年4月に開始された本学の百年史編纂事業には既存資料の提供や新規資料の保存の面で本館としても引続きご協力申し上げたいと考えております。また、情報公開法が平成13年4月から施行されますが、本学に関連する公文書の内で保存年限を過ぎたものを保存・管理し公開する大学アーカイブズとしてもお役に立ちたいと考えております。

 今後とも皆様方のご支援を賜りますようお願い申し上げます。
(おだ ただお  総長特別補佐・附属図書館長、理学研究科教授)

 


東北大学史料館の発足とその課題

史料館研究員 永田 英明 


東北大学史料館の発足

 東北大学史料館は、昭和38年7月に発足した「東北大学記念資料室」をもとに、平成12年12月1日付で設置されました。この改編は、東北大学の大学運営の在り方に関する全学的見地からの問題提起を契機に、記念資料室および同運営委員会・専門委員会において改革案の検討を行い、「東北大学の在り方に関する検討委員会」の答申として評議会で審議決定され、実現に至ったものです。

 新しい史料館「東北大学史料館設置規定」に基づいて設置されることになりました。記念資料室時代から変化した点としては、まず第一に、運営委員会の構成員を部局長レベルから各部局推薦の委員へと変更し、あわせて従来の専門委員会を廃止したことがあります。第二に、運営委員長の副総長から館長への変更と、副館長・副委員長制の導入です。これは総長補佐体制

は、記念資料室のそれを踏襲して「東北大学史料館設置規程」と「東北大学史料館資料収集規程」の二つが制定された。これらによる転換点としては、まず第一に、運営委員会の再編が挙げられる。運営委員会の構成員を部局長レベルから各部局推薦の委員へと変更し、あわせて従来の専門委員会を廃止したことにより、従来の二つの委員会の機能はこの新しい「運営委員会」の中に一元的に統合されることになった。

 第二に、運営委員長の副総長から館長への変更と、副館長・副委員長制の導入。この二つはいずれも総長補佐体制の再編に関わるもので、今次の改革で総長特別補佐を兼任することになった史料館長(附属図書館長)が自ら運営委員長となり、その補佐職として設置された副館長が運営委員会の副委員長となった。また専任教官を充てる職として「研究員」が制度化され、委嘱研究員の制度も導入された。

 そしてもう一つ、「記念資料室」から「史料館」への名称変更がある。「室」から「館」への変更は昭和61年(1986)以来現在の独立施設で活動を継続しているという実態に名称をあわせたものである。そして一方の「記念資料」室から「史料」館への転換は、本学総合学術博物館の発足や情報公開法の施行といった近年の動向の中で、大学に関する歴史資料の保存・公開機関である当館の性格を、これまでより明確に表現することを目的にしている。大学の学術研究活動の過程で収集した学術標本保存・公開する総合学術博物館に対し、史料館は、大学自身の日常的な営みの中から生み出された数多くの資料を、大学自身の歴史資料=大学史料として保存・公開していく。大学史料には様々な物があるが、その主体は、やはり文書や写真といった記録史料となってくる。

 

行政文書の保存・公開と史料館

 史料館のもっとも重要な課題は、大学の歴史的公文書をどのように組織的・体系的に収集するかという問題であるが、これは来たる4月から施行される「情報公開法」とも密接な関係がある。大学の所有する行政文書の公開を義務づけた同法は、一方で保存年限を過ぎ行政上の機能を終えた文書の廃棄を促す側面を持っている。行政文書としての価値と歴史的史料としての価値との間には、当然ながらその有効期限にズレがあり、史料館において歴史的公文書の保存・公開を行う必要性はまさにここから生じている。実際本学では史料館による歴史的価値の評価とリンクしたかたちでの行政文書管理のシステムが検討されており、史料館でもこうした動向を踏まえた資料収集・保存体制の整備が急務となっている。

 こうした課題は、もちろん東北大学のみに特有のものではない。国立大学の大学アーカイブズとしては当館の以外にも東京大学史史料室、九州大学大学史料室、名古屋大学史資料室などが従来から活動しているが、歴史的公文書の組織的・体系的な収集はいずれの大学においても、こうした課題の解決に向けた努力が進められている。そして昨年末に設置された京都大学の大学文書館では、行政文書の効率的管理という観点から、組織的・体系的な形での公文書移管のシステムが検討されているようである。

 私立大学を含め、大学アーカイブズの多くは、記念誌編纂などを契機に、大学自身のアイデンティティに関わる施設として設置された。五十年史編纂をきっかけに生まれた東北大学記念資料室もこの例に漏れない。しかし「開かれた大学」が唱えられる現在、大学アーカイブズは大学自身のアイデンティティであると同時に、市民にとって、社会にとっての歴史的情報収集・検証の場となることが求められてきている。近代以降「学都」と呼ばれる仙台では、特にこうした傾向が強いのではなかろうか。

 このほかにもあらゆる面で課題が山積みの史料館ではあるが、皆様のご指導とご支援のほどをお願い申し上げる次第である。 

 

 


東北大学史みに事典   「卒業式」の記念講演


 今年もいよいよ卒業シーズン。昨年3月の本学では、学部卒業生2,466名、博士前期課程修了生1,435名、合計4,000名弱を対象にした「学士・修士学位記授与式」を仙台市体育館で行いました。もちろん今春も、学生生活の最後を飾るこの儀式が盛大に行われる予定です。

 東北大学における卒業式は、第1回生を出した大正3年(1912)からからはじまりますが、大正8年からは東大はじめ各帝国大学の卒業式が廃止され、中断します。これが「学士試験合格証書授与式」の名称で復活したのが昭和4年(1929)。この時に新機軸として打ち出されたのが、学外から講師を招いて行う「紀念講演会」の開催でした。下の表は、当館所蔵の卒業式関係資料から復原した記念講演の一覧表です。

 昭和4年の第1回講演は、雑誌「日本人」の発刊や政教社の創設などで明治大正期の言論界に名を馳せた三宅雪嶺(1860−1945)と、オリザニン(ビタミン)の発見者として著名な農芸化学者鈴木梅太郎(1874−1943)の両氏を招き、以下昭和6年までは文・理系それぞれ一本ずつの講演が行われています。昭和7年以後終戦直後まではおおむね工・医・理・法文の学部持ち回りで講演が行われ、昭和24年(1949)の新制大学発足以降は文系・理系の交互開催だったようです。講演者は戦前は全て学外から招かれていますが、戦後は昭和20年(1945)の藤原松三郎を皮切りに、各学部の初代教授であった名誉教授がラインナップに加えられるようになります。

 題目からみる限り、講演の内容はそれぞれの学問分野に関する専門的なものを主体としていますが、一方で、当然ながらそれぞれの時代相をも反映しています。戦時下においては演題にも国家主義的・植民地主義的な要素がうかがえますし、戦後になると民主主義や学問のあり方といった問題を扱う講演が増えています。なお講演の内容は毎年要旨としてまとめられ、関係者に配付されていました。史料館にもそのほとんどが揃えられています。

 卒業式は、学生数の増加に伴い巨大な儀式となり、昭和35年からは片平から現在の川内記念講堂へと場所を移します。そして記念講演は、昭和38年(1963)を最後に卒業式の式次第から消滅しました。廃止に至った理由は判明しませんが、「卒業式」という儀式のこうした変質に、60年代における大学と学生のあり方の変化を読みとれると言うと、言い過ぎでしょうか……。(永田)

卒業式記念講演一覧

年月 講演者 演題
昭和4.3 三宅 雄二郎(雪嶺) (不明)
  鈴木 梅太郎 「食物の化学」
昭和5.3 瀧本 誠一 「徳川時代の法について」
  三好 学 「櫻の話」
昭和6.3 織田 萬 「常設国際司法裁判所について」
  五島 清太郎 「人類生物学の問題二三」
昭和7.3 伊東 忠太 「支那建築の特性について」
昭和8.3 藤波 鑑 「人生と疾病」
昭和9.3 新城 新蔵 「天文と人生」
昭和10.3 服部 宇之吉 「孔子と知天命」
昭和11.3 西川 ■吉 「化学工業の基礎」
昭和12.3 志賀 潔 「科学研究とその実施」
昭和13.3 大幸 勇吉 「我が国における化学の発達」
昭和14.3 高岡 熊雄 「熱帯植民者としての日本民族」
昭和15.3 斎藤 大吉 「日満支ブロック内の鉄と石炭について」
昭和16.3 長与 又郎 「癌腫について」
昭和16.12 岡田 武松 「日本の気候」
昭和17.9 高楠 順次郎 「東西思潮の合流」
昭和18.9 加茂 正雄 「国の礎」
昭和19.9 橋田 邦彦 「格物致知」
昭和20.9 藤原 松三郎※ 「和算」
昭和21.9 津田 左右吉 「我が国の思想界の現状について」
昭和22.9 俵 国一 「研究と実地」
昭和23.3   (講演者の都合により中止)
昭和23.9   (同上)
昭和24.3 藤田 敏彦※ 「神経系機能の即応性」
昭和25.3 後藤 格次 「学問の思想」
昭和26.3 真島 利行※ 「科学と宗教」
昭和27.3 金森 徳次郎 「私の民主的人生観」
昭和28.3 佐野 秀之助 「科学する心」
昭和29.3 前田 多聞 「我が国民主主義の将来」
昭和30.3 畑井 新喜司※ 「太平洋学術会議について」
昭和31.3 小宮 豊隆※ 「漱石と金」
昭和32.3 勝沼 精蔵 「無脳児について」
昭和33.3 矢内原 忠雄 「科学的精神について」
昭和34.3 八木 秀次※ 「大学教授の任務について」
昭和35.3 瀧川 幸辰 「学問の自由と大学の自治」
昭和36.3 坂口 謹一郎 「微生物と人生」
昭和37.3 務台 理作 「現代社会における技術と理性」
昭和38.3 岡田 要 「脊椎動物進化の話」
津田左右吉の講演要旨と速記録

 

 

受 贈 資 料

New Face紹介  ニューマン文書

 第二次世界大戦中の1942年に、シンガポールを占領した際、日本陸軍が現地で接収した英軍レーダー手Newmanのノートを転写印刷したもの。当時欧米に遅れをとっていたレーダー技術に関する情報として翻訳・分析を進める中、東北帝国大学工学部の八木秀次教授・宇田新太郎講師(当時)が発明したいわゆる"八木アンテナ"が利用されていたことが判明し、関係者を驚かせた。
 八木アンテナは戦後テレビの登場とともに一般家庭に広く普及した地上波受信アンテナだが、1926年に発明されて以後、戦前は国内では実用化に至らず、むしろ海外で積極的に軍事利用されていた。広島・長崎に投下された原子爆弾にも、爆発高度の決定のためにこのアンテナが装着されていたという。
 文書は当初ノートの分析に従事した塩見文作氏の手で長く保存されていたが、その後佐藤源貞上智大学名誉教授(元本学助教授)から佐藤利三郎本学名誉教授を経て、当館に寄贈された。

 

 

活動記録抄

○展示活動

◆トロポノイド化学の父・野副鉄男博士資料展(2000年1月5日〜2月29日)

 「トロポノイド化学」という有機化学の新分野の開拓者として活躍された、野副鉄男元理学部教授(昭和33年文化勲章)の旧蔵資料を展示した。

◆東北大学における国際交流のあゆみ展(2000年8月22日〜9月30日)

生物学者H.モリッシュ、哲学者K.レーヴィットなど戦前期に東北帝国大学に在職した外国人教師をはじめ、留学生、初代 教授の海外留学に関する資料などを展示。1922年のアインシュタイン来学時の資料も公開。

◆展示室見学者数(平成12年1月〜12月)…1155名

○停年退官教官著作目録・肖像写真の作成

 1999年度:著作目録作成46名、肖像写真作成45名

 2000年度:著作目録作成34名、肖像写真作成32名

○『東北帝国大学一覧』等のマイクロ化(1999年度東北大学教育研究協力基金による)

 戦前期本学研究の基本資料『東北帝国大学一覧』、『仙台高等工業学校一覧』や、創設時の民間からの寄附文書を収録した『寄附関係綴』のマイクロフィルム化をおこなった。後者については収載文書目録も刊行。

○当館への問い合わせ・調査事項(抄出)

明治大正期の本学の看護婦養成機関

仙台医学専門学校中川愛咲教授について

如春寮の歴史について

第二代総長北條時敬と西田幾太郎の師弟関係

第二師団長乃木希典邸(金研本多記念館地)について

旧制二高最後の入学式・卒業式について

旧制二高教授瀧川亀太郎(君山)について

仙台高工校歌の作曲者

藤野厳九郎の名前の読み方

放送大学の建物(旧理学部生物学科)の歴史

本多光太郎旧蔵資料の閲覧