東北大学百年史編纂室ニュース
第8号 2001.10.1

東北大学分校第一教養部(富沢)
目次
教養部史の編纂にあたって

東北大学東北アジア研究センター教授・教養部史編纂委員会委員 入間田宣夫

点描・百年史 大学新聞の歴史(上)

東北大学百年史編纂室 中川  学

東北大学百年史編集委員会要項
東北大学百年史編纂室日誌抄録
受贈図書一覧
 


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教養部史の編纂にあたって

東北大学東北アジア研究センター教授・教養部史編纂委員会委員 入間田宣夫



 教養部が廃止されて、新しい全学教育と大学教育研究センターが立ち上げられたのは、1993(平成5)年3月のことであった。それ以来、8年余りが経過している。
 このような現存しない部局の歴史についても、東北大学百年史のなかで、責任をもって、叙述することに決まったのは、まことに喜ばしい。だが、その方針を実行する当事者となれば、話は別である。予算がない。部屋がない。人がいない。現存の部局ならば、予算も、部屋も、人も、必要に応じて、配分してもらうことができるのだが、それが叶わない。どうしてよいか分からない。渡部治雄・江幡武教授ほか、関係者による話し合いが繰り返された。
 その結果、予算については、阿部総長に申し上げて、全学レベルの会計から支出していただくことになった。部屋については、大学教育研究センター資料室を借用させていただくことになった。人については、旧教養部教官・事務官十数名による教養部史編纂委員会を組織して、大学教育研究センター長に委員長としての責任を担っていただくことになった。諸方面からの援助によって、ようやく、出発の節目を迎えることができた。ありがたいことである。

 教養部の歴史は、制度改変の連続であった。1949年(昭和24)新制東北大学が発足するに当たって、第一教養部(前身は旧制二高)、第二教養部(前身は旧制仙台工専)、第三教養部(前身は旧制宮城女専)が設置されて、前期教養課程(一般教育・体育を主とする)を担当することになった。ただし、学部としての独立性を認められずに、分校としての取扱を受けるに止まっている。1957年(昭和32)には、一・二・三分校が合体して、富沢分校として、再出発することになった。1958年(昭和33)には、川内に移転して、川内分校と呼ばれることになった。そして、1964年(昭和39)には、学部としての独立性が認められ、教授会が設置されて、正式に教養部の名前が使用されることになった。この間に、教育学部の前期課程については、特別扱いにされて、教育教養部(前身は宮城師範・同青年師範)に委ねられていた。1957年には、富沢分校に同じく、川内に移転して、川内東分校と呼ばれることになった。そして、1964年、教養部が学部として独立してからは、教育学部分校と呼ばれることになった。だが、それも束の間、翌1965年には、宮城教育大学の設置にともなって廃止され、教官の多くが転出し、前期課程は教養部によって担われることになった。このような教育学部の前期課程に関わる独自の歴史については、教育学部の部局史において取り扱われることに決まっている。

このようにして、独立の学部にまで固められた教養部が1993(平成5)年3月に廃止されることになったのは、大学改革、とりわけ前期教育の改革をめぐる全国的な論議の高まりによるものであった。それによって、教養部の学生は、それぞれの専門学部に所属することになった。同じく、教官は、それぞれの専門分野に応じて、国際文化研究科・情報科学研究科・言語文化部・大学教育研究センター、ないしは文学部・教育学部・理学部・工学部・医学部・薬学部・農学部などに所属することになった。

教養部の歴史には、東北大学に入学した学生の全員に近く(1965年からは全員)が登場している。教官についても、通常の学部のレベルを大きく上回る人数が登場している。一・二・三教(分校)から教養部廃止に至るまでに在籍した常勤の教官の人数だけでも、809人に及んでいる。そのほかに大勢の非常勤講師が教えていた。大勢の事務官ががんばっていた。かれら・かの女らが、どのように学び、遊び、暮らし、教え、研究し、働いていたのか。その全容を解明することは、至難の業といっても過言ではない。そのためには、どのような史料(資料)を、どこから、探し出してきたらたらよいのか。見当がつかない。

たとえば、常勤教官809人について、生年・就任年月日・昇任年月日・退官(転出)年月日、などの基礎的データー(任官表)を取りまとめるだけでも容易なことではない。これについては、庶務に通じたベテラン旧事務官に、非常勤として詰めて、数ヶ月を越える作業に従事していただくことによって、どうにか目処をつけることができた。同じく、カリキュラムの変遷、キャンパスの図面、教授会議事要録の概要などについても、困難はあったが、経験豊かな、旧教官・事務官にお願いして、それなりの取り纏めを行うことができた。しかし、まだまだ、不十分である。たとえば、かれら・かの女らの日常生活やキャンパス内の授業・建物などの風景をうかがわせてくれる写真類が足りない。多彩なサークル活動や学生運動に関する記録が足りない。かれらの想いを記した文章が足りない。寮や下宿の生活を伝えてくれる記録が少ない。これからが、大変である。

紛争と改革という二大キーワードを抜きにして、教養部の歴史を語ることはできない。大学の規模が拡大する(学生定員の急増、学部・学科の増設など)なかで、大学の役割に対する社会的なニーズが変化するなかで、それに連動して、前期教養教育のありかたが深刻に問い直されるなかで、これらのキーワードが鮮明に立ち現われ、人びとの意識を激烈に揺さぶることになった。そのような大筋の経過については、異論のないところであろうか。だが、具体的な問題に一歩でも踏み込むならば、百家争鳴・異論百出を免れない。なにしろ、あれだけの人びとが、あれだけの立場に分かれて、あれだけの複雑な論議を繰り返し、あれだけの多彩な行動を繰り広げていたのだから。どのようにしたら、全体的かつ客観的な叙述を行うことができるであろうか。悩ましいところである。

教養部史編纂委員会において執筆に向けた話し合いが行われたのは、2000年(平成12)3月であった。目次案が提案され、それに応じて執筆の分担が決定された。その概要を紹介したい。
(総論)東北大学教養部における教育改革、(各論)官制・組識・運営(教官・事務官主要人事)/教育内容・カリキュラム・入学志願者・入学者・修了者/研究活動(人文・社会・理科・外国語・体育ほか)/予算・施設・図書(生協売店、キャンパス風景)/学生生活(勉学、試験、サークル活動、アルバイト、仕送り、住居、学寮、クラス会、自治会、生協活動、……)(入学、新歓、海上運動会、大学祭、コンパ、修了)(粟野観音、交通安全碑)/紛争(サークル棟、封鎖・占拠、大量留年、大量処分…・・)/教職員の生活(親睦会、親交会、余暇活動、組合)(米軍住宅、野球部、運動会、…・・)
あれから一年有余。悩みの多い日々であった。この夏休みは、最後の追い込みで、大勢の執筆者が資料室に日参している。輪郭が見え始めた原稿も出てきている。この冬には、相互の突き合わによって、全体としての完成を目指さなければならない。割り当てられた原稿の総枚数は、528枚(400字詰原稿用紙換算)。気の遠くなるような作業が予想される。しかし、ここまで来たからには、みんなで、がんばり通すしかない。関係諸方面による倍旧のご支援をお願いする次第である。


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点描・百年史 大学新聞の歴史(上)



 昭和3年(1928)に創刊された『東北帝大法文時報』、これが東北大学における最初の大学新聞である。
 日本における大学新聞の歴史は、大正6年(1917)の慶應義塾大学の『三田新聞』に始まる。そして大正9年には東京帝国大学の『帝国大学新聞』が刊行されるなど、その後、大学における新聞刊行が相次いだ。『東北帝大法文時報』(以下『法文時報』とする)もその流れの中に位置づけることができる。
 大学新聞の大きな特徴としてあげられるのは、学生によって編集された新聞という点であろう。もちろん、その編集組織のありかたや財政基盤など、個々の大学ごとに個性はみられるものの、大学新聞とは、学生が大学内外に情報を発信するための主たる媒体であった。そのため、公的な記録には現れない学生の考え・主張などの一端を知ることができる資料として、大学史編纂においても重要視されてきており、東北大学百年史編纂においても積極的な利用がなされると思われる。
 とはいえ、東北大学における大学新聞は、戦前に刊行されたもののほとんどが散逸し、戦後のそれも約7割が東北大学史料館に保存されているにすぎない。そのような資料の残存状況と戦後の大学新聞が複雑な変遷を辿ったという事情もあってか、『東北大学五十年史』においても、戦前における大学新聞の創・廃刊について記述されるのみで、その全体像はいまだ明らかにされていない。よって、以下では、東北大学における大学新聞の歴史について概観することとしたい。

『法文時報』と入学宣誓式事件
 昭和3年11月創刊の『法文時報』は、法文学部の学友会組織である強立会によって刊行された新聞である。当時の学生の回顧談によると、文部省が各大学に学生課を設置し、学生の思想取締を強化していた時期であったため、大学新聞ではなく、あえて法文学部有志の企画としたという。同新聞は法文学部の学生有志によって編集されていたもので、同学部の全学生が購読し、その購読料(1部5銭)は強立会によって支払われる形をとっていた。とはいえ、『法文時報』は単なる一学友会の新聞ではなく、全学的新聞としての志向性を持っていた。それは僅かに残存している紙面からも読み取ることができる。
 たとえば、第52号(昭和7年7月25日、写真参照)の記事をみてみよう。その一面には「非常時の就職」として、満州事変後における各学部ごとの就職状況調査の結果を掲載し、戦争景気で驚異的な就職率をあげる工学部、学生の半分しか決まらない「惨憺たる」法文学部、就職者の7割が教員のため「教員養成所化」しつつある理学部、7割が医局に進む医学部といった論評を記している。そのほか、学内動静や学生サークル関係の記録、文芸・書評欄などがあり、その一部には学生自治会のありかたを問うといった思想的色彩が強い記事もみられるものの、全体としては大学新聞としての体裁を保っていた。ところが、同新聞は創刊から僅か4年後にあたる昭和7年11月に廃刊となる。
 その契機となったのは昭和7年5月2日に起こった入学宣誓式事件である。『河北新報』昭和7年5月6・7日の記事によると、昭和4年9月の学友会(職員・学生の親睦団体、大学全体の組織)解散以降、旧学友会基金の処分・東北帝国大学新聞の発刊・凶作地学生の授業料値下げという3つの問題が、大学と一部学生との間の懸案であった。そのような状況下、同年の入学宣誓式の最中に、法文学部強立会・医学部艮陵会の学生が壇上に登り、学生課を批判する演説をおこなったという。このことを「式場冒用」とする大学は、学生を停学・訓戒処分とした。この事件を契機として、法文学部強立会のなかに同会を学生による自主的な組織に変えるため、会則を変更しようとする動きが生まれた。11月22日、強立会総会が開催されたが、総会は決裂、強立会は自主解散となり、同時に『法文時報』も廃刊となった。大学側もほぼ同時期に、『法文時報』の編集姿勢は左翼思想のために新聞を利用するものであるとして、同新聞の解散を決意していたが、学生側の分裂によって廃刊が早まることとなったのである。『法文時報』廃刊の背景には、学生と大学(学生課)との対立、そして自治組織のあり方をめぐる学生側の分裂があったといえる。

『東北帝国大学新聞』の誕生
 『法文時報』の廃刊後も大学新聞の発行を求める動きは続いた。昭和10年(1935)6月には、法文学部・医学部学生を中心に帝大新聞発行運動準備会が発足するなど、特に学生側において熱烈な新聞発行運動が進められた。これに対し、大学側は『法文時報』の轍を踏むまいと慎重な態度を崩さなかったが、後に東北帝国大学新聞会会長となる石原謙教授(法文学部)が、今日としては新聞発行を許可する方が得策と反対派を説得する形で大学の合意を取り付けるなど、新聞発刊へ向けた主導的役割を果たした。同年12月には、新聞発行のための理論的・技術的研究をおこなう新聞研究会(会長石原謙)が結成され、翌11年5月には『研究会新聞』が発行される。経営面に関しては、緊縮財政の中で大学の経費支出が難しいため、発行資金の一部に旧学友会基金2000円が用いられることとなった。そして、同年10月、「本学職員学生及卒業生ヲ以テ会員トシ、学内外ノ報道ヲ為シ、兼ネテ会員相互ノ親睦ト意志ノ疎通ヲ図ルヲ以目的」とする東北帝国大学新聞会が結成され、10月26日、『東北帝国大学新聞』創刊号(写真参照)が発行された。
 新聞会は、会長に石原謙教授、顧問に5名の教授、理事に学生主事という大学側の教職員と、編集委員として理・医・工・法文学部から選出される12名の学生(各学部から3名ずつ)から構成されていた。創刊号は8頁で7000部発行され、印刷は地元の河北新報社にておこなわれた。現在、東北大学史料館には創刊号のみが保存されているが、新聞発行の許可取得を優先した編集であったためか、全体として学生よりも教官が執筆した記事が目立つ。「四半世紀の想ひ出を辿りて」という7名の教授による回顧談、服部英太郎教授(法文学部)による学術論文「社会政策に於けるフアシズムの進展」、新明正道教授(法文学部)による紀行文「満州印象記」などが特に目を引くものである。三枝彦雄教授(理学部)が「人工放射能」という文章を寄せている「科学」というコラム欄は理科系教官・学生への目配りを感じさせる。

人民戦線事件と『東北帝国大学新聞』の廃刊
 ところが、この新聞もある事件を契機に、廃刊することとなる。それは、昭和12年(1937)7月20日に刊行された第14号の「挙国一致」という記事が、新聞紙法により警察から注意処分を受けたことに始まる。大学新聞掲載の記事は、印刷前に新聞会理事(学生主事)の検閲を受ける規定であったが、編集責任者である法文学部学生が検閲後、印刷所において密かに記事を差し替えていたのである。紙面が残されていないため、内容の詳細は不明であるが、大学はこの記事を「労農オンパレード」「時局柄不謹慎」と評している。 この事件を受けて、大学側は大学新聞への規制を強める方向に進む。従来の新聞が責任者不在、管理監督不十分、大学側と新聞との連絡不十分、経理不健全という欠陥を持っていたとして、大学が直接的関与をおこなえる形に組織を再編し、新聞発行を進めようとしていたのである。
 ところが、翌昭和13年2月、労農派の学者らが大量検挙された人民戦線事件が起こる。東北大学では宇野弘蔵助教授(法文学部)のほか、大学新聞の学生編集委員6人も治安維持法違反容疑で検挙された。この事件は新聞会を実質的に壊滅状態に追い込んだとみられる。これ以後、残りの編集委員が自由主義グループと穏健グループに分裂、しばらくは各グループが交互に新聞発行にあたったものの、同年8月20日発行の第28号をもって休刊の報知をおこなうこととなる。先に記したように、大学は東北帝国大学新聞部という新組織によって大学新聞を発行することを決定していた。しかし、その後、同部の新聞が刊行されることはなかった。
 そして、次の大学新聞の刊行までには、昭和21年(1946)の『東北学生新聞』の創刊を待たねばならなかったのである(以下、次号)。

東北大学百年史編纂室 中川  学


●参考文献


「大学新聞関係綴」、東北大学史料館所蔵。
『東北帝大法文時報』第52号(強立会)、『東北帝国大学新聞』創刊号(東北帝国大学新聞会)、東北大学史料館所蔵写真版。
小林藤吉「法文時報の頃」、『東北大学新聞』第200号(東北大学新聞社)、1955年9月5日、東北大学史料館所蔵。
新明正道「東北帝大新聞の頃」、『東北大学新聞』第200号(東北大学新聞社)、1955年9月5日、同前。
殿木圭一「『帝国大学新聞』の歴史」、『帝国大学新聞』復刻版、不二出版、1985年。


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東北大学百年史編集委員会要項

(平成13年3月15日制定 百周年記念事業準備委員会)


(設置)
第1条 東北大学百周年記念事業準備委員会に、東北大学百年史(以下「百年史」という。)の編集に関する必要な事項を審議するため、東北大学百年史編集委員会(以下「編集委員会」という。)を置く。

(組織)
第2条 編集委員会は、委員長及び次に掲げる委員をもって組織する。
一 歴史の諸分野に関し専門的知識を有する者 若干人
二 部局史編さん委員会(第九条第一項の規定により置かれたものをいう。)を置く部局から推薦された者 各一人

(委員長)
第3条 委員長は、編集委員の互選によって定める。
2 編集委員会の委員長は、編集委員会の会務を掌理する。

(専門委員会)
第4条 編集委員会に、百年史(部局史を除く。)を執筆させるため、専門委員会を置く。
2 専門委員会は、専門委員若干人をもって組織する。
3 専門委員会に委員長を置き、編集委員会の委員長をもって充てる。
4 専門委員会の委員長は、専門委員会の会務を掌理する。

(部会)
第5条 専門委員会は、必要があると認めるときは、部会を置くことができる。
2 部会に属すべき専門委員は、専門委員会が定める。
3 部会は、必要があると認めるときは、専門委員以外の者をその組織に加えることができる。
4 部会に部会長を置き、その部会に属する専門委員の互選によって定める。
5 部会長は、部会の会務を掌理する。

(委嘱)
第6条 編集委員、専門委員及び前条第3項に規定する部会の委員は、総長が委嘱する。

(編さん室)
第7条 編集委員会に、百年史の編さん業務を遂行させるため、編さん室を置く。
2 編さん室に、室長、専門員及びその他の職員を置く。
3 室長は、編集委員会の委員長をもって充てる。
4 室長は、編さん室の室務を掌理する。
5 専門員は、本学の専任の教官をもって充て、総長が命ずる。
6 専門員及びその他の職員は、編さん室の業務に従事する。
7 編さん室の事務は、別に定める部局において処理する。

(部局史編さん委員会)
第8条 部局に、当該の部局史編さんのため、部局史編さん委員会を置く。
2 部局史編さん委員会は、百年史の共通の編さん方針に基づき、編さん委員会及び編集
委員会と密接に連携を図り、かつ、協力し、部局史を編さんするものとする。

(雑則)
第9条 この要項に定めるもののほか、編集委員会の運営に関し必要な事項は、編集委員会が定める。

附 則
この規程は、平成13年4月1日から施行する。


※百周年記念事業準備委員会の設置により、平成13年3月15日の百年史編さん委員会において同委員会規程が廃止された。それに伴い百周年記念事業準備委員会の下に百年史編集委員会が置かれることとなり、本要項が制定された。


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百年史編纂室日誌抄録

2001(平成13)年  
3月 2日 東京大学史史料室中野実助教授来室
5日 総務掛との話し合い(予算関係)
7日 第13回編集委員会
9日 馬渡編纂委員長との話し合い(今泉室長、中川講師、高橋助手)
12日 附属図書館より資料調査
15日 百年史編纂委員会(12年度事業報告、13年度事業計画、13年度予算)
編纂室スタッフ会議
21日
〜23日
大学アーカイヴスに関する研究会(於、京都大学)に参加(中川講師、史料館永田研究員)
27日 工学部史編纂室員来室
29日 竹内峯名誉教授(理)来室
30日 『東北大学百年史編纂室ニュース』第7号発行
松崎啓三室員(事務補佐員)退職
4月 1日 久保内将雄室員(事務補佐員)採用
 5日 経理部主計課との話し合い(部局史について)
6日 経理部主計課との話し合い(部局史について)
10日 事務局史編纂室との話し合い
11日 経理部所蔵資料調査
12日 総務部総務課との話し合い(事務局史について)
19日 工学部史編纂室員来室
企画調査室より調査依頼(産学協同について)
竹内峯名誉教授(理)来室
編纂室スタッフ会議
23日 工学部史編纂室員来室
竹内峯名誉教授(理)来室
27日 工学研究科鈴木睦教授、工学部史編纂室員来室(部局史関係資料閲覧)
編纂室スタッフ会議
5月 7日 今泉室長との話し合い(中川講師・高橋助手)
 9日 第25回百年史編集委員会幹事会
14日 教育学研究科所蔵資料調査(水原教育学研究科教授・中川講師、高橋助手、史料館永田研究員)
今泉室長との話し合い(中川講師、高橋助手)
16日 歯学部事務部より任官表作成について照会
17日 教育学研究科より資料借用(中川講師・史料館永田研究員)
編纂室資料配置換え
元編纂室員小野和夫氏来室
18日 印刷業者との話し合い(編纂工程について)
21日 経済学研究科より任官表作成について問い合わせ
第14回編集委員会(資料編ワーキンググループについて。部局史について)
25日 学務部学生課との話し合い(部局史について)
30日 経理部主計課・管財課所蔵資料の調査
編纂室スタッフ会議
6月 1日 学務部資料調査(中川講師・高橋助手・史料館永田研究員)
 4日 文学部史編纂室員来室(任官表作成について)
5日 赤尾綱男氏(新制東北大学一期生)より資料受贈
25日 「東北大学史年表(第1版)」「部局史編纂のしおり(改訂版)」等の学内配布
編纂室スタッフ会議
26日 第1回資料編ワーキンググループ会議
27日 学務部留学生課所蔵資料の調査
28日 学務部留学生課所蔵資料の一部移管
29日 戦後教育資料(東北大学教育学部創設資料)マイクロ撮影開始
7月 3日 学務部史担当者との話し合い(部局史関係)
10日 学務部学生課所蔵資料の一部移管
18日 資料編ワーキンググループ主査入間田宣夫教授との話し合い(中川講師・高橋助手)
23日 第2回資料編ワーキンググループ会議
24日 文学研究科院生会関係資料調査(中川講師・史料館永田研究員)
26日 学務部所蔵資料一部借用
27日 編纂室スタッフ会議
31日 医学部附属病院より任官表作成について照会
8月 2日 工学部史編纂室室員との話し合い(部局史について)
9日 事務局経理部契約室との話し合い(『百年史』販売分の扱いについて)
加齢医学研究所より任官表作成について照会
14日 事務局より資料借用
17日 旧農学研究所関係資料の調査(中川講師・史料館永田研究員)
20日 事務局総務課法制掛所蔵資料調査(中川講師・高橋助手)
21日 印刷業者との話し合い(組体裁について)
22日 経済学研究科より任官表作成について照会
23日 百年史の販売に関する参考資料を東北大学出版会に送付
24日 宮城県議会図書室調査(中川講師・高橋助手)
27日 法学部法制資料調査室より広中俊雄教授旧蔵「東北大学の管理運営に関する資料」借用
29日 工学部史編纂室より任官表作成について照会
30日 編纂室スタッフ会議
9月 3日 東北大学百年史編纂室ホームページ公開
4日 戦後教育資料(東北大学教育学部創設資料)マイクロ撮影終了
5日 工学部史編纂室より任官表作成について照会
6日 総務部人事課所蔵資料調査
7日 印刷業者との話し合い(組体裁について)
玉懸博之名誉教授(文)来室(法文学部史関係資料調査)
11日 総務課法制掛との話し合い(大学院重点化について)
14日 第5回通史専門委員会(通史編の構成について)
27日 編纂室スタッフ会議
資料調査を目的とした来室者(上記以外。カッコ内は回数)
事務局史編纂室(14)、事務局総務部(3)、学務部(41)、施設部(1)

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受贈図書一覧(学外 平成13年3月〜9月)

3月 1日 日本女子大学成瀬記念館より『成瀬記念館2000』
      『日本女子大学学園史ニュース』第4号
4月 1日  関西学院学印紙編纂室より『関西学院史紀要』第7号
4月 9日  同志社大学社史資料室より『同志社談叢』第21号
      『新島研究』第92号
4月11日  東京経済大学100年史編纂委員会より『沿革資料』第3集
      北海道大学125年史編集室より『北大の125年』
4月16日  関西大学年史編纂委員会より『関西大学年史紀要』第13号
4月17日  東洋大学井上円了記念学術センターより『Satya』42春季号
4月18日  法政大学大学史編纂室より『法政大学と戦後五十年』資料編四
4月20日  明治大学大学史料委員会より『紫紺の歴程−大学史紀要−』第5号
      明治大学歴史編纂事務室より『歴史編纂事務室報告第22集明治大学と学生』
5月11日  学校法人実践女子学園より『実践女子学園100年史』
5月14日  慶應義塾大学福澤研究センターより『近代日本研究』第17巻
      全国大学資料協議会より『年史資料の収集・保存−1999年度全国研究会分科会報告於金沢大学−』
6月11日  広島大学50年史編集室より『広島大学史紀要』第5号
      『広島大学を語る』(原田康夫学長退官記念誌)
6月21日  宮城学院より『宮城学院資料年報−信望愛−』第7号
7月21日  東京女子医科大学より『東京女子医科大学百年史』『東京女子医科大学百年史資料編』
      武蔵野美術大学より『武蔵野美術大学大学史料集』第2集
8月 8日  大谷大学真宗総合研究所より『研究年報』No38.39
9月17日  中央大学大学史編纂課より『中央大学百年史』通史上巻
9月18日  大阪市立大学より『大阪市立大学学生寮の歴史』



表紙写真中の建物配置について
表紙写真中の建物配置について
 分校第一教養部(富沢)の建物配置については「大学基準協会会員資格審査調書」(昭和26年6月 東北大学事務局所蔵)に付されている「第一教養部配置図」から知ることができる。この配置図によれば、写真中の建物は昭和26年時には次のように使用されていた。

1.図書室 2.医務室 
3.教室 4.事務室 
5〜8.教室 9.寄宿舎
 10〜12.教室

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