東北大学百年史編纂室ニュース |
第6号 2000.8.1 |
目次 |
本学の理念を歴史に学ぶ |
東北大学副総長・東北大学百年史編纂委員会委員長 馬渡尚憲 |
部局史編纂委員会名簿(変更分) |
●点描・百年史 |
斎藤善右衛門翁と東北大学 |
東北大学百年史編纂室日誌抄録 |
本学の理念を歴史に学ぶ 東北大学副総長・東北大学百年史編纂委員会委員長 馬渡尚憲
この議論には同感できる点もあるが、一種のとまどいも感じる。東北大学には立派な伝統や個性があるではないかということである。私のように着任して26年、東北大学の良さに感じ入り、ますます愛着を深めている者からは、この伝統や個性をもっと自覚しもっと明示しもっと外に向かって主張したらよいとしか思えない。 東北大学の個性を自覚する上で、一番いいのは、東北大学の歴史をひもとくことである。例えば、『東北大学五十年史』をみればいい。記念資料室を訪ねればいい。あるいは、片平を歩くことも一考である。片平はもと文部省直轄の旧制第二高等学校の敷地であり、二高の門扉(遺生研前)、物理学教室(本部左手裏・職員集会所)、書庫(施設部前)があり、また魯迅が学んだ仙台医学専門学校の階段教室と博物理学教室(旧保健管理センター)がある。これらに接すると、東北大学を築いてきた人々の考え方や息吹が伝わる。 なかでも『五十年史』は興味深い。編集委員長の中村吉治先生は「中村史学」(共同体論)で有名な経済学部の先輩である。『五十年史』は人物やその考えをよく伝えているし、東北大学をめぐる状況の記述も生き生きしている。例えば、設置は古河家の寄付で実現したが、3番目の帝国大学を仙台に置くことに奔走したのは宮城県(設備備品の寄贈もした)や仙台市であり、すでに発刊されていた『河北新報』も創設の模様や祝賀会の様子をわがことのように喜んだ記事を載せている。本学は地元の多大な情熱に支えられて創設された。 「研究第一主義」と「門戸開放」は、初代総長・沢柳政太郎(まさたろう)と第2代総長・北条時敬(ときゆき)の時にすでに固まった。沢柳総長は、内に学術研究第一主義、外に傍系入学(高等学校卒業者以外からの入学)いわゆる「門戸開放」を説き、また「実用忘れざるの主義」を説いた。第2代総長北条時敬は、「門戸開放」に従ってすでに沢柳総長が用意していた女性の入学を、文部省の大いなる困惑を後目に許可した。 そのころから約90年がすぎたが、色々な機会に「研究第一主義」と「門戸開放」が引き合いに出されてきた。「実用主義」も時々は引き合いに出されてきた。私が驚くことは、現在でもこの3つは本学の理念や指針として機能しうるし、今後もますます重要になるのではないかということである。世界一流の「研究大学」の指針として立派に機能しうる。 「研究第一主義」に対して時として教育軽視ではないかという声が聞かれる。これは沢柳総長の趣旨とは全くかけ離れた理解である。沢柳総長のいう「学術研究」は教授も学生も一緒になってやるもので、「教育」と区別された研究ではない。大学が教育機関であることは大前提なのである。では何に対して「第一」なのか。それは、政府助言や官僚養成など、大学の政府補助機能に対してである。これに対して、東北大学は教授も学生も「研究第一主義」でいくと唱っているのである。地理的にそうあらざるを得ないということもあったであろうが、むしろ地理的な特性を生かして、研究教育第一主義の本当の学問の府を築いていこうというメッセージが「研究第一主義」である。 「門戸開放」は、当時は傍系入学や女性の入学を意味したが、東北大学に人を受け入れる際、実力以外の何ものでも区別しないという精神ととれる。現在ならばさしずめ、他大学からはむろんのこと、外国人・女性教官の任用、外国人学生や社会人学生の受け入れを行うことではなかろうか。「門戸開放」はどこからでも有能な人材を入れることが、大学の活力と発展の源泉であることを見抜いている。 「研究第一主義」においてその「学術研究」は何のためにという問いに答えているのが、沢柳総長の「実用忘れざるの主義」ではないかと思われる。だから、本学の「実用主義」は、「学術研究」すなわち研究教育が、政府のその時々の要求に直接応じるような有用性ではなく、もっと広く普遍的に人間や社会・産業にとっての有用性や効用をもつべきことを説いているように理解される。 人が歴史に学ぶことがいかに少ないかが歴史の教訓であると言われる。そこで私なりに、本学の理念を『五十年史』に学ぶとこのようになる。『百年史』は東北大学の次の100年への多くの示唆を含むであろうと期待される。 |
部局史編纂委員会名簿
理学研究科 国際文化研究科 |
●点描・百年史 斎藤善右衛門翁と東北大学 大正10年(1921)10月、東北有数の資産家である宮城県桃生郡前谷地村の斎藤善右衛門翁(1854〜1925)は300万円を出捐し、財団法人斎藤報恩会を設立した。その事業目的は出資金の果実を東北地方の学術研究への助成金として交付することであった。 翁は神仏の信仰に篤く「財産は神仏よりの供託物にして私有物に非ず」との堅い信念を持っていたので、財産を国のために還元する方法について、東北帝国大学の小川正孝総長(1865〜1930〔第4代:任期1919〜1928〕)や井上仁吉総長(1868〜1947〔第5代:任期1928〜1931〕)に度々相談した結果、学術研究の補助金交付を事業目的とする財団法人の設置を計画したのである。 翁は既に明治34年(1901)8月に育英貸費事業の規則を仙台の養賢義会等にならって制定し、広く東北各県より志望者を募り、評議員の選考により貸費を決定していた。財団法人斎藤報恩会の事業開始までに、総計246名に対し9万3千200円余の育英資金を提供し、俊秀の養成に尽力していたのである。 また、明治40年(1907)6月東北帝国大学の設立が決定したとき、仙台を東北の真の学都たらしめるには、当時の県立図書館の内容では到底及ばないと見て、宮城県立図書館新築全経費5万円、図書購入費1万5千円のほか、向後50年間年額3千円の図書購入費の寄付を申し入れたことは、斎藤翁が斎藤報恩会設立以前から東北の教育と学問について力を注いでいたことを意味し、宮城県図書館が全国的図書館運動のセンター館として重きをなしたことと無縁ではない。 大正12年(1923)当時、東北地方における学術研究主体は東北帝国大学以外では、わずかに高等学校専門学校の教官を算える程で、斎藤報恩会の研究補助金の大部分は東北帝大がその恩恵に浴したのであり、本学として誠に幸いなことであった。 財団法人斎藤報恩会の設立については、文部、大蔵、内務をはじめ全省庁の許認可が必要であり、翁が連日役所に日参した結果、ようやく実現したのであった。認可が難しかったのは、斎藤報恩会の事業目的が学術研究助成金の交付であること、また研究部門をもつ財団法人はわが国では当時前代未聞であったからだという。 財団法人斎藤報恩会の設置が認可された以後、この種の財団の認可が早まったとされている。斎藤報恩会に次いで認可された三井報恩会はその名称で、服部報公会はその事業内容で斎藤報恩会をモデルにしたといわれている。 財団への出捐金300万円の果実は、当時金利が7分で年額21万円が見込まれ、その6割を学術研究補助に、4割を産業振興と社会事業に充当した。昭和8年(1933)以降は博物館と図書館の経営も追加された。斎藤善右衛門翁は大正14年(1925)5月72才の生涯を閉じたが、財団は翁の遺志を堅く受け継いで事業を継続している。 財団の運営には斎藤初代理事長、小川正孝、井上仁吉両総長らの思想を具現するため、当時アメリカのウイスター研究所から本学理学部生物学科に着任したばかりの畑井新喜司教授(1876〜1963)が参加した。斎藤報恩会の計画にカーネギー学術財団の定款が参照されているのは、畑井教授によると推測されるが、この点からも斎藤報恩会は、欧米、とりわけ新興著しいアメリカの学術財団をモデルにしていると思われる。 畑井教授は、現職のまま斎藤報恩会の学術研究総務部長を兼務し、初代理事長斎藤翁の意を体して研究補助金の申請を審査し、東北帝国大学に多大の補助金を交付した。 研究補助金の交付について「斎藤報恩会研究補助審査方針」(大正13年〔1924〕)は、以下のように掲げている。 |
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大正13年当時、自然科学を対象とする特殊研究者(5帝大、及び専門学校の教官)には、毎年15万円を研究奨励費(現在の科学研究費に相当すると思われる。一件当たり最高額3千円、最低額300円)が文部省から交付された。人数は、全国で177名、東北帝国大学は10名であった(『河北新報』大正13年8月23日)。このことからも斎藤報恩会の研究補助金が如何に本格的研究助成であったかが想像できよう。 「斎藤報恩会研究補助審査方針」は、近年本学が進めてきた特定領域横断研究組織(TURNS:Tohoku University Reserch Networks) を予告する思想の源流ではないだろうか。また、畑井教授が提唱された人類生物学(Human biology) もその一例である。人類生物学とは、生物学者だけでなく、人類学、衛生学その他社会科学者の参加も得て、人間生活についての概括的法則を帰納せしめる学問である、と畑井教授は述べている。これは、戦後の新しい研究領域の展開を先取りした先進性を現してはいないであろうか。 財団が援助した継続的研究費の一例として、まず抜山平一教授が受けた補助金「電話ニ於ケル送話強度明確度ニ関スル研究」がある。これは大正12年度に3千円、13年度には5千円、そして同年八木秀次、抜山平一、千葉茂太郎3教授の共同研究「電気を利用する通信法の研究」の大型研究となり、昭和9年度までに合計22万5千円の補助金を受けている。 「又た斎藤報恩会から20万余の補助を受けて過去5ヶ年に顕著なる研究業績を挙げた電気通信法共同研究の永続を可能ならしめるために工学部附属電気通信研究所を設置する予算をも要求してある」(八木教授「其の後の工学部」『工明会誌』 第11号 昭和5年)といわれているように、本学電気通信研究所は、斎藤報恩会研究補助金による研究が契機となり誕生したことになる。 金属材料研究所でも、昭和4〜5年に低温研究部門創設のために10万円を、農学研究所は、戦時下でありながら設備費として昭和12〜14年度に5万円、18年度に9千円の援助を受けている。 文科系でも斎藤報恩会から援助を受けている。報恩会の寄贈により本学の所蔵となった西欧碩学の個人文庫はヴント文庫をはじめ5文庫、3万5千冊の他チベット仏典579帙がある。その内容は、哲学、美学、法学、心理学、史学等々人文科学全般にわたるもので、附属図書館において一大コレクションを形成している。これらはドイツが経済的混乱期の最中に売立てられたもので、中にはアメリカの著名大学と競合したものもあった。 また、多田等観師(1890〜1967)が本学に将来した西蔵仏典は質量ともに充実し世界的に著名であるが、これも報恩会の寄贈によるものである。報恩会は目録編纂事業も援助したため、本学は西蔵学の文献センターとなっている。 幼くして藩校養賢堂に学び、長じては福澤諭吉の著書を耽読して家業に精励した翁は常に報恩を心がけ、郷土の発展、とりわけ地元における学問研究の発展を願っていた。新たに事業を起こす場合は全国の識者に意見を聴くなど、情報収集も万全であったが、井上、小川、畑井3教授らの、学問研究の姿勢を読み取り、全面的に東北帝大への援助を行なった。その大きさは測りしれない程であり、東北大学の今日あるのは、斎藤報恩会すなわち斎藤善右衛門翁の援助によるところが大きいものであることを、改めて銘記しなければならない。(文中敬称略) 小野和夫(東北大学百年史編纂室員) (参考文献) |
百年史編纂室日誌抄録 |
2000(平成12)年 | |
1月11日 | 鈴木明氏、菅野博之氏(理学部部局史実務担当)来室。 |
13日 | 法文学部史にかかる懇談会。 |
19日 | 大平五郎名誉教授(工学部)来室、資料寄贈。 |
21日 | 広島大学総合科学部助教授小池聖一氏、調査のため来室。 |
26日 | 筑波大学前史資料調査室助手山田恵吾氏来室。 |
31日 | 筑波大学前史資料調査室より『筑波大学前史資料調査室ニューズレター』創刊号寄贈。 『東北大学編纂室ニュース』第5号発行。 |
2月 3日 | 専修大学大学史資料室より『専修大学120年、1880〜2000』寄贈。 |
4日 | 南山大学より『南山大学五十年史・写真集』寄贈。 編纂室スタッフ会議。 |
14日 | 日本女子大学成瀬記念館より『成瀬記念館1999』寄贈。No.15・『日本女子大学学園史ニュース』第3号寄贈。 |
21日 | 京都大学創立百周年記念事業委員会より『京都大学百年史』資料編第1巻寄贈。 |
22日 | 聖徳大学より『楽章II聖徳学園シリーズコンサート第1000回記念誌』寄贈。 |
24日 | 第22回幹事会(11年度事業報告、12年度事業計画、12年度予算)。 |
3月 6日 | 第12回百年史編集委員(通史専門委員会、11年度事業報告、12年度事業計画、12年度予算)。 編纂室スタッフ会議。 |
9日 | 財団法人斎藤報恩会への聞き取り調査。 |
13日 | 馬渡尚憲次期編纂委員長と今泉室長との話し合い(百年史編纂事業について)。 |
17日 | 百年史編纂委員会(11年度事業報告、12年度事業計画、12年度予算)。 |
31日 | 同志社大学社史資料室より『同志社談叢』第20号・『新嶋研究』第91号寄贈。 小野和夫室員(事務補佐員)退職。 |
4月 1日 | 香川郁子室員(教務補佐員)採用。 |
6日 | 國學院大學史資料課より『校史』第10号寄贈。 学習院大学五十年史編纂室より『学習院大学五十年史ニュース』第5号寄贈。 |
10日 | 編纂室スタッフ会議。 |
12日 | 北海道大学125年史編集室より『北海道大学125年史編集室だより』第3号寄贈。 工学部史編纂室より『工学部編纂室通信』第4号寄贈。 |
13日 | 日本女子大学成瀬記念館より『新制日本女子大学成立関係資料−GHQ/SCAP文書を中心に−(日本女子大学史資料集−第6−)』寄贈。 |
17日 | 百年史編纂委員会(11年度決算報告)。 |
19日 | 立教学院史編纂室より『立教学院百二十五年史』資料編第4巻・第5巻・図録寄贈。 |
21日 | 東京都立大学より『東京都立大学五十年史』・『PHOTO都立大学の50年』寄贈。 |
5月 8日 | 関西大学年史編纂委員会より『関西大学年史紀要』第12号寄贈。 |
11日 | 学習院大学より『学習院大学五十年史』上巻寄贈。 |
18日 | 編纂室スタッフ会議。 |
24日 | 学習院女子短期大学史編纂委員会より『半世紀 学習院女子短期大学史 図録』寄贈。 |
26日 | 広島大学50年史編集室より『広島大学50年史紀要』第2寄贈。 |
29日 | 宮城学院資料室より『宮城学院資料室 年報−信・望・愛−』第6号寄贈。 |
6月 1日 | 大谷大学真宗綜合研究所より『真宗綜合研究所研究紀要』16号・『真宗綜合研究所研究所報』No.37寄贈。 |
15日 | 竹内峯名誉教授(理学部)来室(イールズ事件について)。 編纂室スタッフ会議。 |
19日 | 半田恭雄名誉教授(言語文化部)来室(教養部史編纂のため調査)。 |
28日 | 高柳洋吉名誉教授(理学部)より資料寄贈(故高柳真三名誉教授関係資料)。 |
29日 | 財団法人斎藤報恩会への調査(資料借用)。 |
7月 6日 | 筑波大学前史資料調査室より『筑波大学前史資料調査室ニューズレター』第2号寄贈。 |
10日 | 「百年史通史編纂のための研究会」(第10回)開催。 |
13日 | 編纂室スタッフ会議。 |
25日 | 「百年史通史編纂のための研究会」(第11回)開催。 |
31日 | 「百年史通史編纂のための研究会」(第12回)開催。 |