東北大学百年史編纂室ニュース
第5号 2000.1.31

第10回東北帝国大学理学部数学科卒業写真

目次
陳建功−中国現代数学の源流

東北大学大学院理学研究科教授・百年史編集委員会委員  猪狩 惺

『東北大学百年史』
通史専門委員会委員・部会委員名簿
東北大学百年史編纂委員会規程
●点描・百年史
狩野亨吉先生と東北大学
東北大学百年史編纂室日誌抄録


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陳建功−中国現代数学の源流

東北大学大学院理学研究科教授・百年史編集委員会委員 
猪狩 惺

 陳建功は本学数学教室を1923年(大正12)に卒業された。ここでは、陳建功生誕百年に因んだ話題などを交えて彼の研究活動の足跡をたどりたいと思う。

 陳建功(1893-1971)は、中国現代数学の発展に大きく貢献したことによって、すでに中国数学史上の人物として広く知られている。彼の研究は三角級数論、実関数論、複素関数論など多岐な分野にわたる。また学問、数学に対する真摯な態度によって優れた研究者を数多く育て、中国現代数学の発展に大きな影響を与えたのである。

 いささか旧聞になるが、1993年 5月に杭州大学で、陳の業績をしのぶ「記念陳建功教授誕辰 100周年式典」および記念研究集会が行われた。杭州は、陳がほぼ全生涯にわたって活動の拠点とした地であり、杭州大学は副学長をも勤めたゆかりの大学である。

 式典は李鵬首相(代読)をはじめとする政府、省関係者,学会、大学関係者など、祝辞に数時間を要するほどの盛会で多彩な顔ぶれであり、彼が中国における近代科学の発展にいかに寄与したか、その評価を示すものであった。カリフォルニア大学の樊 (Fan Ky)教授は、挨拶のなかで、陳は、蘇歩青(1902-、本学昭2卒、幾何)、華羅庚(1910-85、独学、古典領域上の調和解析)と並んで、中国における現代数学の創始者三人の一人であると述べている。

 ここで陳の足跡を簡単に紹介しておこう。1929年以降の記録については主に蔡[2]によった。

 陳建功は1893年中国浙江省、紹興で誕生した。1910年杭州の両級師範学校に入学、数学の道に進むことを決心したといわれる。

 陳が最初に来日したのは1913年であり、2年目に東京高等工業学校に入学、染色科で学んだ。当時の中国は工業方面の専門家を養成することが急務であったからである。しかし、陳は数学への志向を断ち切ることができず、東京物理学校の夜学に通った。1918年東京高等工業学校を卒業、翌年東京物理学校を卒業した。

 1919年中国に帰国し、浙江甲種専門学校(浙江大学工学部の前身)で染色工業関係の教鞭をとる。

 1920年再来日、東北帝国大学の数学科に入学、大学1年の時、東北数学雑誌、20巻1921 年に最初の論文を発表した。この論文は、中国現代数学の発足を物語る記念すべき二つの論文の一つとなった。

 1923年東北帝国大学を卒業し帰国、浙江専門学校で教鞭をとり、翌年国立武昌大学数学教授として招聘される。

 1926年再び仙台の地に帰り、東北帝国大学大学院に入り、藤原松三郎教授の指導を受けて三角級数論を研究する。2年余りの間に得た一連の重要な研究成果を10数編の英文論文として日本の数種の雑誌に発表した。そして1929年、これらの成果を綜合して学位論文にまとめあげた。日本で外国人留学生が学位を取得した第一号である。

 藤原は彼の能力を高く評価し、この方面の専門書を書くことを薦めた。陳は短期間に完成させ、『三角級数論』として1928年に岩波書店から出版した。理論構成においても内容的にも非常に優れたものである。

 藤原は彼の帰国を惜しみ、日本で研究を続けるよう説得したというが、彼の決意は固く、1929年9月祖国に帰った。中国では、直ちに北京大学、武漢大学などが教授として迎えようとしたが、条件がむしろ悪い杭州にある浙江大学にあえて赴任した。父母の住む紹興に近いこと、設立されて日が浅い浙江大学の数学教室で彼の夢を実現しようとしたためであろうなどと推測されている。

 開放前に中国の多くの大学では、講義は中国語でなされるようになったが、彼は中国語で全部講義した最初の教授であり、このことは彼の民族意識を語るものである。数学術語は少なからず彼が定めたものであるという。ちなみに、岩波書店発行の『三角級数論』によって我々も彼が用いた幾つかの用語の恩恵に預かっている。

 陳は、また、学長を説得し東北帝国大学に留学している蘇歩青(日本留学生学位第二号)を浙江大学に招聘した。陳蘇両教授は協力し、上級学生と助手たちを対象にしたゼミを開き多数の数学者を育成し、広く陳蘇学派として知られるようになった。

 1937年、抗日戦争が勃発したため、浙江大学は西に2500キロ向かい理学部は 潭に拠点移し、1940年に研究生を取り始め、1941年浙江大学数学研究所が廟のなかに設けられた。そこでの最初の研究生が後に北京大学数学研究所所長となった程民徳教授(1917-98)であり、夏道行、谷超豪、張鳴縺A龍昇など錚々たる人材を輩出した。杭州に戻ることができたのは1946年のことである。この間に陳は10数編の論文を書いている。

 1947年から翌年までプリンストン高等研究所の研究員を勤めた。

 1952年陳は復旦大学に移り、復旦大学は第二の陳蘇学派の基地となった。大学の学部再編成によって浙江大学は工業大学に改組され浙江大学の殆どの数学教官が復旦大学に移ったのである。1958年杭州に綜合大学杭州大学が新設され、陳は副学長に任命された。復旦大学とは兼務であった。彼はまた全国人民代表大会の代表でもあった。

 1959年と60年に2編の擬等角写像に関する論文を発表、著書『直交級数の和』(1954),『実関数論』(1958)、『三角級数』(1965)を出版した。

 この間、1957年共産党による整風運動があり、1958年教育革命の一環として、数学の基礎理論は否定されたが、陳は臆することなく意見を述べたため、壁新聞で蘇とともに批判の対象となる。中国科学院数学物理化学部の学部委員、中国科学院数学研究所の研究員、中国数学会副理事長、浙江省科学技術協会主席であった陳は、絶好の標的にされ浙江省最初の打倒対象人物となってしまった。1969年には開放されたが、1971年4月11日世を去った。第4期人民代表大会の代表であった。(敬称略)

[1]佐々木重夫:『東北大学数学教室の歴史』,東北大学数学教室同窓会(1984).
[2]蔡 猗瀾(白鳥富美子訳):「陳建功 その学者としての生涯」,『数学セミナー』,   日本評論社,1(1982),52-55,2(1982),44-47,3(1982),56-61,4(1982),93-98.
[3]王斯雷:「記念陳建功教授誕辰一百年」杭州大学学報、20(1993),245-250.



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通史専門委員会委員・部会委員名簿
(平成11年11月1日現在)

●専門委員(規定第6条第1項)



委員長
専門委員
















所 属

文  学  部
東北アジア研究センター
文  学  部
文  学  部
文  学  部
文  学  部
教 育 学 部
教 育 学 部
法  学  部
理  学  部
医  学  部
工  学  部
工  学  部
国際文化研究科
金属材料研究所
電気通信研究所
東北アジア研究センター
東北アジア研究センター
職 名

教 授
教 授
教 授
教 授
助教授
助教授
教 授
教 授
教 授
教 授
教 授
教 授
教 授
教 授
教 授
教 授
教 授
教 授
氏 名

今泉 隆雄
吉田 忠
玉懸 博之
大藤 修
佐藤 弘夫
柳原 敏昭
沼田 裕之
水原 克敏
吉田 正志
安田 延壽
百々 幸雄
加藤 正名
太田 照和
井原 聰
小林 典男
中島 康治
入間田 宣夫
平川 新
●部会委員(規程第6条第3項)





















所 属

文  学  部
文  学  部
文  学  部
文  学  部
文  学  部
教 育 学 部
教 育 学 部
教 育 学 部
教 育 学 部
法  学  部
法  学  部
法  学  部
経 済 学 部
経 済 学 部
理  学  部
工  学  部
国際文化研究科
大学教育研究センター
東北アジア研究センター
職 名

教 授
教 授
教 授
教 授
講 師
教 授
教 授
教 授
助教授
教 授
助教授
助教授
教 授
助教授
教 授
教 授
助教授
教 授
教 授
氏 名

佐藤 勝則
熊本 崇
吉原 直樹
小野 善彦
高橋 章則
加藤 守通
大桃 敏行
宮腰 英一
秋永 雄一
寺田 浩明
大内 孝
空井 護
長谷部 弘
川名 洋
秋月 瑞彦
飯淵 康一
小原 豊志
関内 隆
山田 勝芳


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東北大学百年史編纂委員会規程
(平成十年十月二十日 改正 規第百二十四号)

(設置)

第一条 東北大学(以下「本学」という。)に、東北大学百年史(以下「百年史」という。)の編さん及び刊行に関し必要な事項を審議し、編さん事業の円滑な推進を図るため、東北大学百年史編さん委員会(以下「編さん委員会」という。)を置く。


(組織)

第二条 編さん委員会は、委員長及び次に掲げる委員をもって組織する。
一 副総長(総長が委員長に指名する副総長を除く。)
二 各学部長
三 大学院国際文化研究科長
四 大学院情報科学研究科長
五 各附置研究所長(東北アジア研究センタ−長及び遺伝生態研究センタ−長を含む。)
六 附属図書館長
七 医学部附属病院長
八 歯学部附属病院長
九 言語文化部長
十 大学教育研究センタ−長
十一 事務局長
十二 その他総長が必要と認めた者


(委員長)

第三条 委員長は、総長が指名する副総長をもって充てる。
2 委員長は、会務を総理する。
(編集委員会)
第四条 編さん委員会に、百年史の編さんに関する専門的事項を調査審議させるため、
編集委員会を置く。
2 編集委員会は、次に掲げる編集委員をもって組織する。
一 歴史の諸分野に関し専門的知識を有する者 若干人
二 部局史編さん委員会(第九条第一項の規定により置かれたものをいう。)を置く部局から推薦された者 各一人
3 編集委員会に委員長を置き、編集委員の互選によって定める。
4 編集委員会の委員長は、編集委員会の会務を掌理する。


(専門委員会)

第五条 編集委員会に、百年史(部局史を除く。)を執筆させるため、専門委員会を置
く。
2 専門委員会は、専門委員若干人をもって組織する。
3 専門委員会に委員長を置き、編集委員会の委員長をもって充てる。
4 専門委員会の委員長は、専門委員会の会務を掌理する。


(部会)

第六条 専門委員会は、必要があると認めるときは、部会を置くことができる。
2 部会に属すべき専門委員は、専門委員会が定める。
3 部会は、必要があると認めるときは、専門委員以外の者をその組織に加えることが
できる。
4 部会に部会長を置き、その部会に属する専門委員の互選によって定める。
5 部会長は、部会の会務を掌理する。


(委嘱)

第七条 第二条第十二号に掲げる委員、編集委員、専門委員及び前条第三項に規定する
部会の委員は、総長が委嘱する。


(編さん室)

第八条 編さん委員会に、百年史の編さん業務を遂行させるため、編さん室を置く。
2 編さん室に、室長、専門員及びその他の職員を置く。
3 室長は、編集委員会の委員長をもって充てる。
4 室長は、編さん室の室務を掌理する。
5 専門員は、本学の専任の教官をもって充て、総長が命ずる。
6 専門員及びその他の職員は、編さん室の業務に従事する。
7 編さん室の事務は、別に定める部局において処理する。


(部局史編さん委員会)

第九条 部局に、当該の部局史編さんのため、部局史編さん委員会を置く。
2 部局史編さん委員会は、百年史の共通の編さん方針に基づき、編さん委員会及び
編集委員会と密接に連携を図り、かつ、協力し、部局史を編さんするものとする。


(庶務)

第十条 編さん委員会の庶務(編さん室に係る事務を除く。)は、事務局総務部におい
て処理する。


(雑則)

第十一条 この規程に定めるもののほか、編さん委員会の運営に関し必要な事項は、編
さん委員会が定める。


附 則
この規程は、平成十年十月二十日から施行する。


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●点描・百年史

狩野亨吉先生と東北大学

 東北大学附属図書館が所蔵する「旧蔵者の名を冠する個人文庫」のうち、最大のものが「狩野文庫」である。国宝二点を含む十万八千冊の蔵書量と、研究用文献として古今無双の質の高さを誇り、近年その一部がマイクロフィルム版として公刊されたため、広く内外の研究者を稗益している。

 この「狩野文庫」は、大正元年に仙台出身の資産家で貴族院議員荒井泰治氏からの奨学寄付金三万円をもって買い入れた、文学博士狩野亨吉の旧蔵書であり、その後数次にわたり追加されたものである。

 狩野博士は、第四高等中学校教授、第五高等学校教頭、第一高等学校長、京都帝大文科大学長を歴任し、幾多の俊秀を育てた偉大な教育者であり、また我が国きってのエンサイクロペデイスト、書誌学者、文献学者であり、とくに安藤昌益の発見・紹介者としても著名である。

 当時、本学は開学早々で文科系学部が未設置なのに、なぜこのような人文系の大規模なコレクションを買い入れたかについては、法文学部設置のための先行手配であると同時に、澤柳政太郎初代総長のかねてからの構想であった第二国立図書館設立のためでもあったらしい。

 本学理科大学の開講(明治44.9.)に先立ち附属図書館が設置 (明治44年 6月) され、澤柳総長にしたがって東京から来任した田中敬司書官は、総長の第二国立図書館設立の夢を本人から直接聞いたという。その構想が発展すれば、東北帝大図書館は大学図書館であると同時に、わが国初の市民開放型の実験的第二帝国図書館として誕生していたのかもしれない。

 狩野は慶應元年秋田県大館に藩校教師の次男に生まれ、明治に入って、父の内務省出仕により東京に移り、番町小学校、一番中学を経て十五才で東京大学予備門に入る。明治17年二十才で東京大学理学部に入学、二十四才で数学科を卒業し、翌年文科大学哲学科に入学、二十四年卒業大学院に入学した。研究テ−マは「数学のメソドロジ−」であった。

 府立一中以来、大学時代を通じて同期生であったのがのちの文部次官・文部大臣で本学創設時の総長事務取扱岡田良平、東大文学部長上田万年、東北帝大初代総長澤柳政太郎などで、本学の創設期に主要な役割を担うことになる人達であった。狩野は府立一中のときは、一切の講義を英語で行う変則科であったが、日本語で講義を行う正則科には夏目漱石や幸田露伴などがいたという。

 狩野が本学理科大学の教授選考に参画したかどうかについては明らかではないが、東北帝大理科大学創設準備委員である長岡半太郎が、最も相談し易い位置にいたのが狩野であった。明治20(1887)年帝大物理学科が、外人教師ノット(C.G.Knott) の指導で行った全国地磁気調査の際、長岡の一年後輩で数学科の狩野が、デ−タの整理と補正値の計算を担当するなど極めて近い関係にあった。

 また、本学数学科林鶴一教授(初代附属図書館主幹)とは数学科の先輩・後輩としてだけでなく、和算の研究においても肝胆合い照らす間柄にあったことが、後年和算書の集書として狩野文庫とともに著名な「林文庫」の成立に影響してはいないのであろうか。

 東北帝大理科大学が「科学概論」の講義担当者を選考する際も、澤柳総長は狩野に相談したことが容易に想像される。「科学概論」を最初に担当した田辺元は、狩野が一高校長のときの教え子であり、田辺が数学科から哲学科への転科について悩んだとき、狩野に相談している。また狩野は、東北帝大の「科学概論」の講師として、田辺の起用を親友の澤柳に強く推してもおかしくはない。なぜなら、田辺の手がけていた数理哲学論(「自然数の哲学的基礎について」他数学関係論文)とでも言うべきものは、狩野のかってのテ−マ「数学のメソドロジ−」と類縁関係にあり、田辺が狩野のテ−マを継承し、さらに発展させてくれるものと、狩野には映っていたのかも知れない。

 狩野は林鶴一を林君と呼びながら、二回りも年少の田辺元に対しては田辺元さんと、さん付けで呼んでおり、親愛の情を隠し切れない。狩野亨吉は、理科大学の一部の人事については、澤柳、長岡などから相談をもちかけられ、影の選考委員を務めたのではないかと思われるほどである。ところが、大正2年澤柳が京都帝大総長への転出に際し、後任の第二代東北帝大総長に、また、皇太子傳育官などに狩野自身が推薦されようとしたとき、即時謝絶したことはよく知られているところである。

 研究者が和漢古典の研究を進めるとき、研究の素材とその主要文献の大半を狩野文庫中に見出すことが多く、「狩野先生は私の研究を予見して文献を用意されたようだ」と感嘆する人もある。それほどに「狩野文庫」の恩恵に浴している人が多いと言ってよいのではあるまいか。

 当時理科系だけで成立していた東北帝国大学が、和漢の古典を主体とする「狩野文庫」を購入したことは、ゆくゆくは文科系学部を増設して綜合大学とし、東北文化の中心たらしめようという沢柳総長の遠大な計画によるものであった。

 その後の東北大学の発展に果たした「狩野文庫」の役割は大きく、また将来も変わることはない。東北大学は、沢柳総長の熱い説得に「狩野文庫」の譲渡を決意した狩野亨吉、そして沢柳総長の説得に「狩野文庫」が永遠に仙台に在ることを条件に巨額の寄付を決断した荒井泰治、これら諸先達の方々の高い見識に心からの敬意を払わずにはいられない。(文中敬称略)

小野和夫 (東北大学百年史編纂室員)

(参考文献)
1.『東北大学五十年史』 東北大学 昭和35年
2.安部能成編 『狩野亨吉遺文集』 岩波書店 昭和33年
3.藤岡由夫監 『長岡半太郎伝』 朝日新聞社 昭和48年
4.『田辺元全集』 第11巻月報 昭和38年
5.『荒井泰治伝』(私家版)    大正 5年

(写真)
1.狩野亨吉(1865-1942)(京都大学百年史編集史料室 提供)
2.沢柳政太郎(1865-1927)(東北大学記念資料室所蔵)
3.荒井泰治(1861-1927)(『荒井泰治伝』(私家版))より
4.現在の狩野文庫 入口(左)と内部(右)(東北大学附属図書館内)



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東北大学百年史編纂室日誌抄録

 

1999(平成11)年  
9月 8日 編纂室スタッフ会議。
10日 「百年史通史編纂のための研究会」(第2回)開催。
13日 北海道大学125年史編集室より『北海道大学125年史編集室』ニュース第2号寄贈。
渋谷陽三氏(元東北大学職員)より資料寄贈。
19〜22日 高橋助手(百年史編纂室)、永田助手(記念資料室)、金沢市出張。
(二代総長北條時敬関係資料調査)
21日 財団法人 艮陵医学振興会より『事業報告-平成11年度』寄贈。
27日 「百年史通史編纂のための研究会」(第3回)開催。
東海大学課程資格教育センターより『東海大学紀要課程資格教育センター』第8号(1998年)寄贈。
10月 1日 渡辺治雄名誉教授(大学教育センター)より『大学改革の到達点にたって−国立七大学教養(学)部の総括−』(大学教育改革委員会・九州大学大学教育研究センター1999.3)寄贈。
10月 4日 編纂室スタッフ会議。
佛教大学学術振興課より『佛教大学学事年報』(1997年)寄贈。
10月18日 「百年史通史編纂のための研究会」(第4回)開催。
11月 1日 「百年史通史編纂のための研究会」(第5回)開催。
編纂室スタッフ会議。
11月12日 100周年記念事業企画「百年史編纂・刊行」に関する懇談会(東北大学研究教育振興財団久道理事・中塚理事・今泉編集委員長)
「百年史通史編纂のための研究会」(第6回)開催。
11月19日 総長会見(小山編纂委員長・今泉編集委員長)
12月 1日 「百年史通史編纂のための研究会」(第7回)開催。
12月 2日 小山編纂委員長と今泉編集委員長の話し合い。
12月 3日 『山形大学五十年史』寄贈。
12月13日 「百年史通史編纂のための研究会」(第8回)開催。
12月15日 施設部において資料調査を行う。
『東京外語大学史−独立百周年(建学百二十六年)記念−』寄贈。
『埼玉大学五十年史』寄贈。
12月21日 総長会見(小山編纂委員長・今泉編集委員長・中川講師・高橋助手)
12月24日 「百年史通史編纂のための研究会」(第9回)開催。

 

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