東北大学百年史編纂室ニュース | |
第4号 1999.8.31 | |
目次 | |
医学部艮陵同窓会の由来など | |
東北大学名誉教授・百年史編集委員会委員 櫻井 實 | |
『東北大学百年史』 | |
部局史編纂委員会名簿(2) (第3巻・第4巻) | |
●点描・百年史 | |
長岡半太郎博士と東北大学 | |
東北大学百年史編纂室日誌抄録 | |
医学部艮陵同窓会の由来など 東北大学名誉教授・百年史編集委員会委員 北四番丁の大学病院の向かいに「艮陵会館」という建物がある。医学部の同窓会館であるが、通り掛りの人が、「看板の字の点が風で飛んでいますよ」と言ったという話が伝わっている。たしかに優・良・可の「良」はよく見慣れているので、「良」の上の点が落ちてなくなっていると思ったらしい。だいたい、「艮」という漢字をどう読むのかとなると字画は少なくても、自信をもって読める人はそうはいないようである。これは「ごん」と発音する。余り縁起の良い言葉ではないが、暗いという意味である。そういわれてみれば「艮」の左に立心偏を付けると「恨」となる。しかし「懇親会」の一部分にも顔を見せる文字である。もともとは夜明前の暗がり、つまり時刻では丑寅、方角では北東を表わしている。 ところで、どうして医学部同窓会が艮陵会という名称になったかに触れると、話はやや長くなる。先般刊行された『艮陵同窓会百二十年史』に元医学部長を勤めた山本敏行名誉教授が詳しく記述されているが、第二代東北大学総長、北條時敬(1858-1929)が医学部学友会の名称として冠したものであったとされる。時は大正5年(1916)6月21日で、東北帝国大学医科大学が大正4年に設立された翌年、当時の学長であった医化学講座の井上嘉都治教授(1876‐1944)の提案に基づくという。 東京から見た北東の仙台、京都の比叡山、江戸の寛永寺というこじつけがあったそうだが、東都の東北に聳える学問の丘という意味合いが篭められている。 現在の東北大学医学部はその前身を辿っていくと、明治5年(1872)に廃藩置県で宮城県が生れてすぐの5月に、今の東二番町小学校あたりに県立医学所が開設され、この時点をもって仙台地区における西洋医術を導入した医学教育機関誕生の日としている。これと平行して有志の出資による共立病院が設立され、やがてこれが県に委譲されて宮城病院となるが、爾来、西欧文明到来への対応に忙しい明治時代の目まぐるしい変革が続くのである。 明治19年(1886)になると当時の文部省は中学校令を公布し、地方税による県立学校の運営を禁止したために、県立医学校は、新しく作られた国立の第二高等中学校に医学部という形で併合され、医学教育の実習の現場とも見なされる宮城病院は県立のまま継続して運営される。 さて、明治27年(1894)になると高等中学校はいわゆる旧制の蜂マークの第二高等学校となるが、それまで医学部として包蔵していたものを明治34年(1901)に仙台医学専門学校として分離独立させることになる。日露戦争の最中、若かりし魯迅が清国からの国費留学生としてこの専門学校で医学の勉強をしたのは有名な話になった。 そうこうするうちに、県立宮城病院は今のホテルプラザの所にあったものが手狭になったので、現在の医学部附属病院のある土地に三年がかりで新築工事を始め、明治44年(1911)の4月に竣工落成の運びとなる。北四番丁と木町通りの角が病院の入り口で、そこに立派な四本の赤煉瓦の門柱と鉄の扉が出来上がり威厳を添えた(写真)。 今の門柱は平成2年に復元されたもので、元の煉瓦の一部は病院敷地内に作られた由来碑の中に埋め込まれて保存されている。筆者はその復元の推進役を担当したのだが、80年前の仙台の歴史的記念物として是非にも残したかったのである。よく見ると、柱の大小に合わせて煉瓦の大きさが異なっており、柱の上には街灯も点されるという吟味したものであった。鉄の扉は戦時中に供出させられたが、鋳物であったろうと思われる。 医学部の敷地内にもう一つ歴史的なものがある。それは山形仲藝(1857-1922)のレリーフである。東北帝国大学が明治40年(1907)に創設され、それまで孤立して医学教育が仙台医学専門学校で行なわれていたものが、明治45年(1912)に東北帝国大学医学専門部という形で吸収される。かような激動の医学教育変遷の中、福井県生れの山形仲藝は、明治21年(1888)、当時の第二高等中学校医学部長に就任して以来一貫して、臨床医学の教育に携わってきた。新築移転をした県立宮城病院がその2年後に国に寄付されて東北帝国大学医学専門部附属病院となり、続いて大正4年(1915)に医学専門部は東北帝国大学医科大学となる。初代の学長兼教授には医学専門学校の校長を歴任した山形仲藝が任命されたのであった。翌年には医科大学学長を辞し附属病院長となるが、満六十歳を迎えた大正5年(1916)5月に退官する。 記録によると、この時、金杯一個の下賜、職務勉励賞金三千円、慰労金千円が給与され、正三位に叙されている。当時の艮陵会では、山形仲藝博士の功績を称えて翌年等身大のフロツクコート姿の銅像を建てた。これまた戦時中供出の運命となったが、昭和29年(1954)、艮陵同窓会七十周年記念事業として、もとの銅像の立っていた礎石に銅版の浮き彫りを掲げた。山形仲藝が初代の学長を勤めた医科大学はその4年後の大正8年(1919)4月より大学令によって東北帝国大学医学部と名称が変わる。 時代は変わり、身近かな建造物も新しいものに入れ替わって行くのは致し方ない事情もあろう。しかし過去の歴史は未来への伝言であることを忘れてはならないと思っている。今の東北大学の構内に、その昔の遺構を少しでも残すことが出来れば、それを見た人々は必ずや過去と未来の流れを繋いでくれることと信じている。 |
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部局史編纂委員会名簿(2)
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●点描・百年史 長岡半太郎博士と東北大学
岡田良平文部次官と文部省専門学務局長福原鐐二郎の依頼により、明治42年 4月(1909)東北帝大理科大学創立準備委員を嘱託され、教授候補者の選考を担当したのは東京帝大理科大学物理学科の長岡半太郎教授であった。 東北帝大の総長は澤柳政太郎と特定されてはいたが、理科大学長には文部省と澤柳総長の意向により長岡が擬せられ、設備と予算とが提示された。長岡は、かねてより構想していた理想の大学を作るため東北帝大に行く決心を固め、教授候補者の外国留学と備品類購入等の先行手配に着手した。 本学理科大学の初代教授候補者の選考と、学部開設のための設備計画とその手配を行ったということで、長岡博士は東北帝大理科大学の産みの親の一人であり、理科大学は長岡構想によって設立されたといってよい。 明治・大正・昭和の三代にわたり、わが国科学界の大御所の一人であった長岡半太郎博士は、帝国大学理科大学(東京大学)在学中から頭角を現し、メンデンホ−ル、ノット、ユ−イング等物理学科外人教師の影響からいち早く脱却し、自立した見解をもち、数多くの業績により国際的な評価を得た、わが国科学界の偉大なる先達の一人である。 長岡は、慶應元年肥前大村に父治三郎母きくの長男として生まれ、9才で上京し湯島小学校、東京英語学校(後東京大学予備門となる)から東京大学理学部理学科に進学し、帝国大学を22才で卒業し大学院に入り給費生となる。幼時、長岡の父が藩主の欧米視察に随行し、2年にわたり外国事情を見聞したが、このことは半太郎少年の開明性を大いに育んだに違いない。 長岡と東北帝国大学との縁は、理科大学の教官選考に始まるが、岡田文部次官から理科大学学長(学部長)に擬せられた長岡は自らも仙台への赴任を決断し、明治43年(1910)欧州各国の大学事情視察に出発した。 滞欧中は実験機器や図書の購入を手配するなど、東北帝大理科大学の開設に意欲満々で、その頃欧州に研学中の本多光太郎、日下部四郎太、真島利行、矢部長克、佐川栄次郎、愛知敬一、藤原松三郎をパリに召集し、理科大学教授会(パリ会議)を開いている。その顔ぶれの殆どが長岡の推薦に関わる人たちであった。(石原純は明治45年(1912)渡欧、帰国後教授) この顔ぶれを見るに、東北帝国大学理科大学(理学部)物理関係の初代教授陣は、カミナリ親父の異名をもつ長岡から、未だかつてどなられたことのない弟子逹であり、長岡が本腰で東北大学での研究活動を目論んでいたことがうかがえる。その人事配置は、国際的評価を得た磁気歪の研究を本多光太郎に、原子模型の研究は石原純に、そして岩石の弾性率の研究を日下部四郎太に、それぞれ担当させ、長岡物理学の総合的発展をはかるという、万全の布陣と構想を備えていたのである。 長岡の構想の一つに科学思想の普及がある。東北帝大理科大学は開設早々から、東北帝国大学理科大学夏期学術講演会(明治44年(1911)から、1回7日間)物理学・化学実験指導(中学校教員対象、それぞれ10日間)通俗講演会(明治45年(1912)から、夜間7日間)などを実施しており、現在もその伝統を受け継ぐものもある。 また、特筆されるべきものとして『科学名著集』の出版がある。「ハ−,ヘルムホルツ著、力(エネルギ−)の保存について」大正2年(1913)を第1冊とし、大正10年(1921)までに9種の物理学古典名著の翻訳を理科大学関係者が行い、わが国科学思想の普及に貢献している。 これは全冊に「東北帝国大学蔵版」(奥付:東北帝国大学編纂)とあり、長岡は全冊自ら校閲したほか、各冊に 4〜25ペ-ジ,合計で102ペ-ジにも達する長岡自らが草した「小引」が付されており、各冊の論文の概説に限らず、著者の伝記、学者間の交流、学会の反応と論争、それらにまつわる逸話などを含み、長岡教授の名講義を直接聴くような魅力に溢れている。これ東北帝国大学の名を冠した最初の一般向け図書ではないだろうか。明治29年(1896)以来万国科学書目録編纂委員日本代表として長年にわたり活躍した長岡の面目躍如たるものがある。 長岡の東北帝大理科大学学長(現在の理学部長に相当)への就任は、当時の東京帝大浜尾新総長に慰留され実現はしなかったが、後年大阪帝大総長、学士院長を歴任した長岡は、常に東北帝国大学に支援を寄せていたという。 長岡が送り込んだ東北帝大理科大学初代教授たちの内、数年を出でずして愛知敬一、続いて日下部四郎太を失うなど不幸に見舞われた。しかし、長岡によって東北帝大に撒かれた、ドイツの大学を範とする講座制の種子は、東北帝国大学をアカデミッシェ・フライハイト(学府の自由)の拠点として、他に例を見ない清新な学風が醸成されていった。その弟子達は数々の業績を挙げ、次々と学士院賞を受賞するなど、短期間に東北大の名を不動のものとしたのである。 昭和11年10月、創立25周年記念式典(創立30年、開講25周年)における長岡演説は、初代教授交替の時期にさしかかり、後任教授は東北大学出身者に限ることなく、広く天下の秀才を招致し、学会の重鎮はあげて仙台にありと言われるようでありたい、とする爆弾演説であり、長岡の本学に対する期待の大きさが現れている。 長岡半太郎は、大学の自治と研究の自由、それと平行した科学思想の普及、そして研究第一主義と門戸開放という本学学風の源流をデザインした一人なのではないだろうか。 (文中略敬称) (参考文献)
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東北大学百年史編纂室日誌抄録 |
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平成11年 | |
1月 8日 | 編纂室スタッフ会議。 |
14日 | 第18回幹事会。 (資料編収録の統計データ) |
27日 | 第19回幹事会。 (資料編収録の統計データ、通史専門委員会) |
31日 | 『東北大学編纂室ニュース第3号』発行。 |
2月 5日 | 第10回百年史編集委員会。 (資料編収録の統計データ、通史専門委員会) |
19日 | 編纂室スタッフ会議。 鈴木善三名誉教授(文)より資料寄贈。 北村晴朗名誉教授(文)より資料寄贈。 |
23〜25日 | 編纂室員が国立公文書館、国立国会図書館にて資料調査を行う。 |
3月 2日 | 第20回幹事会。 (10年度事業報告、11年度事業計画、11年度予算、資料編収録の統計データ) |
4日 | 芳賀半次郎名誉教授(経)より資料寄贈。 |
8日 | 第11回百年史編集委員会。 (通史専門委員会、10年度事業報告、11年度事業計画、11年度予算、資料編収録の統計データ) 小山貞夫編纂委員長と今泉室長の話し合い。 |
9日 | 平野賢一名誉教授(工)より資料寄贈。 |
15日 | 百年史編纂委員会。 (10年度事業報告、11年度事業計画、11年度予算) |
19日 | 京都大学百年史編集史料室助手西山伸氏・京都大学総務部総務課岸本佳典氏来室。 東京電機大学より『図録 東京電機大学90年 1907〜1997』寄贈。 |
31日 | 編纂室スタッフ会議。 |
4月 7日 | 早稲田大学史資料センター 安在邦夫所長・金子宏二事務長来室。 |
8日 | 明治大学より『歴史編纂事務室報告』第二十集、『紫紺の歴程−大学史紀要−』第3号寄贈。 |
14日 | 工学部史編纂室より『工学部史編纂室通信』第2号遺贈。 |
19日 | 百年史編纂委員会。 (平成10年度百年史編纂室関係決算報告) |
21日 | 神奈川大学資料編纂室より『神奈川大学史資料集』第十五集寄贈。 |
23日 | 立命館百年史編纂委員会より『立命館百年史紀要』第7号寄贈。 |
5月 6日 | 渡部治雄名誉教授(大学教育センター)より資料寄贈。 |
6月 3日 | 編纂室スタッフ会議。 |
10日 | 渡利千波名誉教授(教養部)来室、資料寄贈。 |
11日 | 学習院大学より『学習院大学の50年−写真と図録』寄贈。 |
16日 | 宮城学院資料室より「宮城学院資料室年報−信・望・愛−』第5号寄贈。 |
18日 | 広島大学50年史編集室より『広島大学史紀要』第1号寄贈。 学校法人立教学院百二十五年史編纂委員会より『立教学院百二十五年史』資料編 第1巻、第2巻、第3巻巻寄贈。 |
21日 | 第21回幹事会。 (資料編収録の統計データ) |
22日 | 実践女子学園より『実践女子学園創立100周年記念写真集Since 1899』寄贈。 武蔵野美術大学大学史史料室より『武蔵野美術大学大学史史料集−第1集学校日誌』寄贈。 |
24日 | 関東学院大学史資料室より『関東学院大学史資料室ニューズ・レター』No1.1999寄贈。 政策研究大学院大学教授伊藤隆氏来室。 |
7月 5日 | 編纂室スタッフ会議。 |
15日 | 小野室員、永田記念資料室員、岩手大学名誉教授佐藤道郎氏に聞き取り調査を行う(於.盛岡市、多田等観について)。 |
21日 | 第1回百年史編集委員会通史専門委員会。 (「通史編」の編纂工程・編纂体制について) |
30日 | 佐々木徹郎名誉教授(教育)来室・資料寄贈。 早稲田大学大学史資料センターより『早稲田大学史紀要』第31巻寄贈。 |
8月 2日 | 第2回百年史編集委員会通史専門委員会。 (部会について) |
3日 | 編纂室スタッフ会議。 |
10日 | 渡利千波名誉教授(教養部)来室・資料寄贈。 |
27日 | 第1回百年史通史編纂のための研究会開催。 |