東北大学百年史編纂室ニュース
第3号 1999.1.31

金属材料研究所

目次
大学史における実験と実験器具

東北大学東北アジア研究センター教授・百年史編集委員会委員 吉田 忠

『東北大学百年史』 部局史編纂委員会委員名簿(1)
東北大学百年史編纂室日誌抄録
●点描・百年史
ケーベル先生と東北大学
お知らせ


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大学史における実験と実験器具

東北大学東北アジア研究センター教授・百年史編集委員会委員   
吉田 忠 

 現今の大学の理系の学部では実験室の存在は不可欠であり、多くの実験器具・器械と取り組んでいる研究者や学生の姿はおなじみの光景である。しかしこれとても歴史的所産であった。

1.大学における実験の制度化
 大学における初期の実験は、今日のように学生自らが参加するものではなく、専ら教師が実演してみせるデモンストレーションに主眼があった。その最も古い例は、解剖教室であろう。中世大学の解剖学教授は古典のテクストの解説に終始し、執刀するのは理髪外科医と呼ばれる人々であった。自ら執刀をする解剖学者の出現はヴェサリウスに代表されるように、16世紀なかばのことである。解剖教室は実際はtheatrum anatomicumと称せられ、劇場とあるとおり、学生は観客として参画しているのである。現存する最古の一つパドヴァ大学の解剖教室(1594)は、昔見学したことがあるが、円形階段状に作られた立ち席から学生は中央の解剖台を覗きこむようになっている。
 簡単な器械・装置を使って力学の原理などを実演してみせる講義用実験は、物理学の場合も行われた。大学における最初の物理学実験施設はライデン大学に設けられ(1675)、その名もthetrum physicumであった。
オランダはニュートン科学を大陸で最も早く受容した国で、ライデン瓶の発明者の一人ミュッセンブルックの父及び兄は、科学器械の制作者であり、彼らの作った実験器具で実演して見せたのである。これらの器具はライデン市にある国立科学史博物館に現存し、その一部は陳列されている。
 学生実験が制度化される端緒はパリのエコールポリテクニクにあるようだが、何と云っても画期的成功をおさめたのはギーセン大学におけるリービッヒの化学実験室であり、これを契機に化学や生理学の分野を嚆矢として実験施設が19世紀のドイツの大学に普及した。

2.東北大学創設時の実験器具
 19世紀ドイツの大学をモデルとした帝国大学が、実験施設の整備をはかったろうことは想像に難くない。記念資料室に、その一端を示す興味深い資料が2点あるので以下に簡単に紹介しておきたい。その一つは「明治四十四年度以降寄付関係書類」と題されるもので、これは住友家からの「奨学資金寄付」や臨時理化学研究所との関係など、東北大学や金属材料研究所の歴史の基本的資料を含んでいるが、その中には実験器具の寄付に関する文書が綴じられている。例えば明治44年7月本多光太郎(彼はどういうわけか、自転車一輌も翌年に寄付している)より瀬戸物管他19点、同9月教育品製造合資会社から友田氏波動模型、島津源蔵(島津製作所)から本多波動模型、さらに12月総額307円の理化学用天秤計9点に関する、東京神田の守谷衡器製造所から真島利行宛の領収書も添付されている。就中最初の資料は、「高温度研究用材料たるべき瀬戸物管」各種合計284箇、価格167円84銭5厘とあり、物理学研究材料用で、ベルリンの王立陶器工場の送り状も添付されている。さらに興味深いことは、同工場からの添え書き(1911.3.23日付)によれば、前年の10月初めにベルリンに滞在した長岡半太郎がこれを発注し、当時パリにいた本多により代金が支払われたことが読みとれる。またロンドンのAdam Hilgerなる会社からの書簡(1911.3.10)によれば、長岡は干渉計をも前年9月同地に滞在中発注していることが判明する。長岡が初代理科大学長に擬せられ、教授陣の人選に主導的役割を果たしたことは周知の通りであるが、実験器具の配備にも気を配っていたのである。(本資料は、いずれ百年史編集委員会の紀要ができ、機会があれば、翻刻して紹介したいと思っている。)
 もう一つの資料の「物理学教室機械台帳」は、明治44年から昭和19年まで同教室で受け入れた実験器具の台帳で、力学(通計590点)、電気学(977点)、光学(391点)、熱学(108点)、磁気学(37点)、音動(36点)に分類されている。前述の友田式「波動機」は、この台帳の冒頭(力学の項)に現れ、また本多式波動機は4番目に記され、ともに昭和19年9月10日に廃棄処分されている。また長岡が発注した干渉計は、「ペル ファブリ式干渉測定器」として光学の項に記録されている。当然のことではあるが、明治44年時に受け入れた機器では、測器の多いのが目につく。例えば力学の分野では、円形測角器、尺度目盛器械、水準器定数測定器、計算尺、比重天秤、晴雨計などであり、電気では、電流計、抵抗測定器、験電気などが散見され、無論電動機、ガイスレル管、蓄電池、スウィッチなど基本的なものも多数購入している。この台帳の利用価値を高めていることの一つに、備考欄に購入先ないし製造元を記していることである。その分析は別の機会に譲りたいが、東京帝国大学理科大学からの移管品も含め実験器具が輸入か国産か、あるいはどの国の製品かが見当がつき(多くは特定の製造先のものである)、また先の研究分野別の傾向も推し量ることができよう。
 以上はあくまでも記録であり、残念ながら実物は廃棄されたりして残っていないのではあるまいか。京都舎密局以来の伝統を継承する京大には古い化学実験器具が現存すると聞くが、本学においてもこうした古い実験器具を発掘し、廃棄することなく、総合学術博物館や各教室などで是非とも保管して頂きたいものである。


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部局史編纂委員会委員名簿(1)

(部局史第1巻、第2巻所収部局。平成10年12月1日現在。第3巻、第4巻所収の部局史編さん委員会名簿は、次号に掲載)

部局史第1巻(平成15年3月刊行予定)
文学部 文学部史編さん委員会
委員長 玉懸博之(教授)
委員 中村捷(教授)、中嶋隆藏(教授)、今泉隆雄(教授)、大藤修(教授)、小林隆(助教授)、永井彰(助教授)

教育学部 部局史編さん委員会
委員長 沼田裕之(教授)
委員 水原克敏(教授)、本郷一夫(助教授)

法学部 部局史編さん委員会
委員長 吉田正志(教授)
委員 寺田浩明(教授)、大内隆(助教授)、空井護(助教授)

経済学部 部局史編さん委員会
委員長 柴田信也(教授)
委員 平本厚(教授)、大滝精一(教授)

言語文化部 部局史編集委員会
委員長 藤原五雄(教授)
委員 川平芳夫(助教授)、佐藤研一(助教授)、藤田恭子(助教授)

国際文化研究科 部局史編纂委員会
委員長 平田隆一(教授)
副委員長 浅野裕一(教授)、佐竹正夫(教授)
委員 竹中興慈(教授)、瀬川昌久(教授)、佐々木克夫(教授)、吉本啓(教授)、小林文生(教授)、黒田卓(教授)、鈴木道男(助教授)、長友雅美(助教授)、重野芳人(助教授)、丸山宏(助教授)

(旧)教養部 教養部史編さん委員会
委員長 江幡武(理学研究科教授)
委員 蟹澤聰史(理学研究科教授)、国分振(情報科学研究科教授)、内田興二(情報学研究科教授)、大友義勝(言語文化部教授)、高橋豊文(理学研究科教授)、関内隆(大学教育研究センター教授)、半田恭雄(名誉教授)、細谷昂(名誉教授)、浅尾豊信(名誉教授)、渡部治雄(名誉教授)、平田隆一(国際文化研究科教授)、入間田宣夫(東北アジア研究センター教授)

附属図書館(含、分館) 附属図書館百年史編さん委員会
委員長 小田忠雄(館長)
委員 高坂知節(医学分館長)、加藤順二(北青葉山分館長)、本間基文(工学分館長)、伊藤敞敏(農学分館長)、辻英雄(事務部長)
(部局史編さん委員会代表)
委員 谷内聰(総課長)、由良信道(管課長)、早瀬均(サ課長)、村岡徹(医事長)、淵辺剛(総補佐)、五十嵐行衛(管専門)、菅野博之(サ専門)、永田英明(記資室)、星政則(青分管)、川村隆男(工分管)、湯本智子(農分図)

部局史第2巻(平成16年3月刊行予定)
理学部 部局史編さん委員会
委員長 猪狩惺(教授)
委員 都築俊夫(教授)、平澤朋郎(教授)、伊藤翼(教授)、大槻憲四郎(教授)、藤巻宏和(教授)、大橋広好(教授)、笠木治郎太(教授)

医学部・医学部附属病院 部局史編さん委員会(委員長のみ決定)
委員長 近藤尚武(教授)

歯学部 部局史編さん委員会(委員長のみ決定)
委員長 大家清(教授)

歯学部附属病院 部局史(委員長のみ決定)
委員長 岩月尚文(教授)

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百年史編纂室日誌抄録

 

平成10年    
7月 2日 各部局に教授会議事録の利用について依頼を行う。
6日 小山貞夫編纂委員長に編纂事業の経過報告を行う(今泉室長、編纂室員)。
8日 第15回幹事会(通史執筆体制、百年史体裁、執筆要項、CD−ROM・『東北大学百年史小史』の出版、資料編収録の統計デ−タ)。
13日 梅花学園資料室より『梅花学園学園史研究』(第5号)寄贈。
17日 渡部治雄名誉教授(大学教育研究センター)来室。
22日 久道茂東北大学後援会理事と今泉室長の話し合い。
23日 第16回幹事会(百年史の体裁、執筆要項、部局史の編纂)。
29日 第8回百年史編集委員会(通史執筆体制、百年史の体裁、執筆要項、『東北大学小史』の出版、電子出版)。
31日 編纂室スタッフ会議。
8月 5日 梅花学園資料室より『梅花学園学園史研究』(第1〜4号)寄贈。
31日 編纂室スタッフ会議。
『東北大学百年史編纂室ニュ−ス』(第2号)刊行。
9月 4日 原田夏子氏より『東北帝国大学女子学生の記録−昭和十八年十月に入学して−』(晩夏会)寄贈。
18日 河相一成名誉教授(農学部)来室。
29日 編纂室スタッフ会議。
10月 1日 第17回幹事会(通史執筆体制、刊行経費・計画、資料編収録の統計デ−タ)。
5日 第9回百年史編集委員会(通史執筆体制、刊行計画、執筆要項)。
9日 小山編纂委員長と今泉室長の話し合い。
16日 工学部史編纂室員・理学部部局史実務担当者来室。
19日 百年史編纂委員会(東北大学百年史編纂委員会規程の一部改正、東北大学百年史の編纂・刊行)
11月 4日 編纂室スタッフ会議。
評議会議事要録件名目録完成。
5日 編纂室員が宮城県図書館において資料調査を行う(河北新報・宮城県庁文書等)。
東北大学工学部電気情報系創立75周年記念史出版会より『ANTENNA−東北大学工学部電気情報系の歴史−』寄贈。
9日 高知医科大学より『開学二十周年記念誌−岡豊今昔−』寄贈。
佐賀医科大学より『開講二十周年記念誌』寄贈。
12日 京都大学総務部創立百周年記念事業推進室より『京都大学百年史』(総説編)寄贈。
工学部史編纂室員来室。『工学部史編纂室通信』(創刊号)寄贈。
13日 事務局総務部人事課資料調査開始。
16日 中村志郎名誉教授(文学部)来室。
19日 上越教育大学より『上越教育大学創立20周年記念誌−飛躍−』寄贈。
20日 編纂室員が宮城県図書館において資料調査を行う(河北新報・宮城県庁文書等)。
12月 2日 編纂室スタッフ会議。
4日 森富名誉教授(医学部)、石井敏弘名誉教授(医学部)来室。
11日 艮陵同窓会百二十年史編纂委員会より『艮陵同窓会百二十年史』寄贈。
工学部史編纂室員来室。
17日 大分医科大学より『仰岳U −大分医科大学二十周年記念−』寄贈。
19日 服部文男名誉教授(経済学部)より資料寄贈。
22日 工学部史編纂室員来室。
兵庫教育大学より『兵庫教育大学二十年史』寄贈。



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●点描・百年史

ケーベル先生と東北大学

 明治26年(1893)から大正 3年(1914)まで、東京帝国大学の学生で、小柄・痩形で人力車に乗り、大学の構内を徐行させていた外人教師の姿を見なかった者はいない。その人は夏目漱石の小品で有名な「ケ−ベル先生」であり、新入生は先輩から「あの人は駿河台の聖人である」と教えられていたという。

 ケ−ベル先生は、好んで学生達を自宅での夕食に招待され談論を楽しまれた。たびたび先生宅に招かれた学生とは、波多野精一、岩元 禎、桑木厳翼、姉崎正治、高山林治郎など文科大学の俊秀たちであったが、その中に、石原謙(哲学)、阿部次郎(美学)、田辺元(科学概論)小山鞆繪(科学概論、哲学)、高橋里美(科学概論、哲学)久保勉(古代言語、西洋哲学史)など、後年東北帝国大学で教鞭をとることになる人達がいたのである。

 ケ−ベル先生(Raphael Koeber 1848〜1923) は、ロシアのニジニ・ノブゴロドのドイツ系ロシア人の家庭に生まれ、教養ある祖母に育てられた。モスクワ音楽院に進学したケ−ベルは、N.ル−ビンシュタインからピアノを、P.I.チャイコフスキ−から、作曲法などを習い,優秀な成績で卒業した。卒業に際し恩師から、職業的ピアノ演奏家になるよう勧められたが病弱のため断念し、哲学の勉強を志してイエナに向かった。

 イエナ大学を卒業したケ−ベルはハイデルベルグ大学、ベルリン大学、ミュンヘン大学で研鑽を積み、その間、数々の著作を発表したが、特に1884年、『ハルトマンの哲学体系』を公にし、当時欧州哲学界の最高峰として、世界的に著名なエドヴァルド・フォン・ハルトマン教授に嘱望され、深い信頼を得ておられたのである。

 その頃、ハルトマン教授の許に東京帝国大学文科大学から、青木駐独公使を通じて哲学講師の推薦依頼があり、ケ−ベルを推薦したとの手紙がケ−ベルの許に届いた。

 ケ−ベルは初め峻拒していたが、ハルトマン教授の数次にわたる説得により、ひとまず3年間の契約で東京に旅立った。1893年(明治26)のことであった。

 ケ−ベル先生の目指した講義は、人文主義的教養そのものであった。また、近代西洋の哲学のみならず、西洋文化一般の徹底的理解にはギリシャ語・ラテン語が必須であるとの信念から、ギリシャ語・ラテン語の講義をも引受けられた。

 ケ−ベル先生の円満な人格と周到な講義は学生達の心を捉え、教室は常に満席であったという。その生徒達の中から、幾多の我国を代表する哲学者が育ち、創立後日が浅い本学理科大学にも若い講師を迎えることができた。

 その最初の人物は田辺元であり、本学理科大学で科学概論、哲学、倫理学等を担当した。それは、法文学部が創設される 9年前の大正2年のことであった。

 田辺は本学在勤6年間にTohoku Mathematical Journal (東北数学雑誌)に「自然数ノ哲学的基礎ニ就テ」をはじめとする数学の哲学的解釈に関する論文4編(いずれもドイツ語)を発表しているが、これらは後年『数理哲学研究』(大正14)となり、わが国の学界に独自の境地を開いた。数学科林鶴一、藤原松三郎、小倉金之助など3博士、ならびに本多光太郎、石原純など理科大学の研究者たちとの交流の成果であるといわれている。

 田辺は、理科大学(東京帝大)で数学を学び、途中進路を変更し文科大学で哲学を専攻した。大正7年、西田幾多郎に請われ京都帝大に転出するが、西田もまた数学に関心を抱く人で、彼が敬愛した恩師北條時敬(本学第二代総長)は数学を専攻した人であり、西田に数学科を志望するよう薦めたという。また、田辺が一高在学中から教示を仰いだ狩野亨吉も数学から哲学に転向した人である。ちなみに、田辺の著書「科学概論」(大正7年)は沢柳政太郎に、「数理哲学研究」(大正14年)は狩野亨吉に捧げられている。これら人物の間に数学の見えざる糸が絡んでいるのはなぜか。理科大学の「科学概論」を着想された澤柳政太郎本学初代総長に伺ってみたいものである。

 大正11年本学に法文学部が創設され、東京帝大や京都帝大出身の精鋭が着任した。その中に幾多のケ−ベル門下生がおり、言わず語らずに、先生の風格を継承した自由闊達な講義が行われたのではないだろうか。

 また、ケ−ベル先生が好んで行なわれたという、学生による先生宅の訪問は、法文学部の「面会日」として、ケ−ベル門下生以外の教官にも定着していたようである。

 それは、戦争末期の激烈な状況の中でも続けられていたようであり、たとえば昭和19年、学徒動員・学徒出陣の最中にもかかわらず、面会日は月曜日武内義雄、火曜日村岡典嗣、水曜日小宮豊隆、木曜日阿部次郎、金曜日岡崎義恵の各教授であった、との回想記録がある。

 学生の教授宅訪問が、必ずしも東北帝大だけの伝統ではないかもしれない。しかし、東北帝大に赴任した数多くのケ−ベル門下生は、恩師ケ−ベルの人格的影響で学生の指導はケ−ベル風となり、先生の教えが、あたかも地下水脈のごとく、本学の学風の一部を形成してきたといってもよいのではないか。

 ケ−ベル先生の晩年、10年にわたり先生と起居を共にした久保勉は、先生の最も身近かな弟子であるが、先生の没後本学法文学部でギリシャ語、ラテン語、哲学史を講じた。また、ケ−ベル先生から継承した先生の蔵書(文学書、音楽書を除く)を本学に将来された。本学図書館に収蔵する「ケ−ベル文庫」がそれである。

 なお、本学第七代総長熊谷岱蔵は、帝大医科大学生のとき、ケ−ベル先生宅を訪問した際「君はキリスト教徒か」と聞かれ「無宗教である」と答えたところ「だが、君はキリストの霊に属する」といわれたこと、また、「夢は何国語で見るか」と尋ねたら「ドイツ語で見る」と答えられたことに興味深く感じたと述懐している。

 結核の神様といわれた熊谷総長の診療や講義にケ−ベル風が認められたのであろうか。(文中敬称略)

(参考文献)
1.『東北大学五十年史』 下 東北大学 昭和35年
2.久保 勉 『ケ−ベル先生とともに』 岩波書店 1951
3.田辺 元 『科学概論』 岩波書店 大正 7年
4.田辺 元 『数理哲学研究』 岩波書店 大正14
5. 『高橋里美全集』 第 7巻 福村出版 1973
6.晩夏会 『東北帝国大学 女子学生の記録』 平成10年 8月
7.熊谷岱蔵 『筆のまま』 私家版 昭和32年

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 現在,百年史編纂室では,学内に保存される行政文書の調査・分析を中心とした作業をおこなっております。しかし,大学という大きな組織体の歴史を描くためには,公的記録には残されない,様々な出来事や人間模様が描かれた記録類や写真などもまた,重要な資料といえます。今後,編纂室では,これら個人が所蔵される諸資料,特に@大学新聞・学生新聞(下の写真参照),A研究室・サークルなどの記録類,B写真類,C個人の日記・メモ,などの調査・収集をおこなっていきたいと考えております。こうした資料の収集にあたっては,教職員・卒業生・在学生の皆様をはじめとする学内外のご協力が不可欠です。
 東北大学に関わる歴史的資料についての情報を、編纂室までご提供下さいますよう、お願いいたします。

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